Avenue.3-6

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 前奏が流れ始めた瞬間、ざわめきが歓声に変わった。
 衝立の裏で、杏菜とサキチ――の中に入っている咲紀と軽くハイタッチをすると、硝はステージに飛び出した。
 すると、イベント広場からあふれんばかりの人波が目に入ってきて、硝は思わず、背を反らせた。踏ん張っていないと、押し返されそうなぐらいの迫力で、MIXの声が迫ってくる。
 硝はマイクを握りなおして、つま先で軽くリズムを取ってから、小さく腕を動かしはじめた。少しずつ動きを大きくするごとに、不思議と気持ちが落ち着いていく。
 ――よし。今日は最高のライブにする!
 大きく息を吸って、硝はマイクを口元に持っていった。
 八月の最終日曜日。「かたひらアベニュー」のイベント広場には、日曜恒例の――そして最後のペッパー&ミントのライブに、たくさんの人がつめかけていた。十時のオープンから十五分も経たないうちに、広場はほぼ通勤電車かのような状態になった。ライブの開演は十五時にもかかわらず、である。
 ただし、五時間も立ちっぱなしというわけではない。両隣の人に声をかけて目印をおいておけば、外出OKというルールが、ペッパー&ミントのファンの間にはできていた。外出している間に、食事を済ませたり、買い物をしたりするわけである。むしろ、「積極的に外出すべし」という空気さえあった。
 八月に入ってから、ライブ後にメンバーとハイタッチができるというイベントができた。ステージ上に並んだメンバーの前を通り過ぎて、そのときにメンバーとハイタッチができるというだけのイベントだが、これが当たった。
 きっかけは、ライブのトークコーナーで、
「お店の売り上げが伸びてないって、怒られちゃったんですよねー」
 と硝がつぶやいたことだった。
 それを聞いたファンが、さっとレシートを取り出して、頭上に掲げたのだ。「自分は買い物してるよ」というメッセージだったのだが、それを見て、
「買い物をしてくれた人には、なにかしない?」
 と杏菜が言い、それを受けて、
「ハイタッチくらいならできるかな?」
 硝が答えると、観客から大拍手が起こり――その日から「ハイタッチ会」がはじまったのである。
 ペッパー&ミントのハイタッチ会のルールは、「レシート一〇〇〇円分を見せると、ライブ後のハイタッチ会に参加できる」だ。なので、ファンは「かたひらアベニュー」内のお店を歩き回って、レシートを集めることになり――結果として、あらゆるお店の売り上げが伸びたのだった。
 ――一曲目が終わると、地鳴りのような歓声が、三人を包んだ。
 肩で大きく息をしながら、
「みなさんこんにちは、ペッパー&ミントです」
 そう言って、硝は深くお辞儀をした。
 いつものなら、ここで息が整えられるはずだけど、今日はなかなか息が戻らない。
 それだけ、力が入ってるんだな……なんてことを思いながら、
「ペッパー&ミントのミント担当、野上硝です」
 と硝は、いつもの自己紹介トークをはじめた――と同時に、観客がいっせいに、きみどり色のタオルを振り回した。
 これがいつもの「儀式」だった。
 ライブ後にハイタッチ会することに決まったあと、なにも買い物をしていない観客が、あわてて周囲を見回したところ、イベント広場に一番近いお店が雑貨屋で、その店頭にはタオルが山積みされていて、しかも都合のいいことに一枚一〇〇〇円で売っていたのである。
 結果、観客のほとんどが、その店でタオルを買ったレシートを持って、ライブ後ハイタッチ会に並ぶことになり、せっかく買ったんだからと、そのタオルをライブで使うようになった……というわけである。
 だから、ペッパー&ミントのライブでは、ペンライトやサイリウムは使われない。「かたひらアベニュー」では売っていないからだ。
 三人の自己紹介が終わったところで、二曲目が流れはじめた。ミドルテンポの、メッセージソング。
 来てくれた人へのメッセージのつもりでこの曲を選んだのだけれども、ホントは自分へのメッセージなのかもしれない――歌いながら、硝は思った。
 アイドルになりたかった。理由やきっかけはどうあれ。
 だから、「ペッパー&ミント」結成の話がきたとき、飛びついた。
 けど、集まったのはたった三人で……しかも残りの二人は、イマイチ乗り気ではなくて。
 しかも、実際に活動をはじめてみれば、見たり聞いたりしていたアイドルとは、かなり違っていて。
 正直、がっかりした部分もあるけど、「中学のときの職場体験みたいなもの」と思って、やってきた。
 そう、「本当のアイドルになるための予習」のつもりだった。
 つもりだった……けど――。
 ――二曲目が、フェードアウトしていく。と同時に、大きな拍手と声援。
 ふぅと大きく吐いたところで、硝は肩を叩かれた。
 右隣のサキチこと咲紀が、手を左右にひらひらさせて、なにかをアピールしている。
「どうしたのサキチ?」
 硝は、サキチに耳を近づけた。「うんうん。好みのタイプの女の子が通ったらちょっとナンパしてくる? あんたライブ中にどこ見てる……って、ちょっと!」
 硝の言葉を無視して、サキチはステージからはけていくと、会場から笑いが起こる。
 ――これが、いつものパターンだった。
 咲紀はダンスが苦手な上、着ぐるみの中に入っているというハンデもある。なので、一度はけて休憩時間を取っているのである。次の曲は硝と杏菜の二人になってしまうのだが、それが逆に「二人組の曲も披露できる」というメリットになっていた。硝と杏菜の二人が疲労するピンクレディーやWinkの曲は、おじさま年代の人たちに好評だったりするのである。
「しょうがないから、二人で続けよう」
 杏菜が言うと、二人はくるりと背を向けた。そのポジションからはじまる曲なのだが……そのときはじめて、衝立に掲げられている大きなフラッグに硝は気がついた。はっとして二人は顔を見合わせた。
 大きさはおそらく、二m×三mくらい。縫い目が見えるから、市販の布を縫ってつくったのだろう。中央にはファンの誰かが考えたであろうペッパー&ミントのロゴっぽいものがあって、その周囲には手書きのメッセージが、たくさん書いてあった。
 思わず、泣き出しそうになって――大きく息を吸って、涙をこらえた。
 こんなことをしてくれたんだという、うれしさと。これで最後なんだという、さみしさと……。
 感情が入りすぎて、ソロパートで声がかすれがちになりながらも、なんとか三曲目を歌いきったところで、いつもより早く、サキチがステージに戻ってきた。
 硝の様子を察したサキチ――の中の咲紀が、ぽんぽんと硝の背中を叩いた。
 台本では、ここで「さっきの女の子は見つかった?」みたいなトークをする予定だったのだけど、「それはいいから、次の曲にいこう」という合図だった。
 黙って二回うなずくと、硝はマイクを両手で握り締めて、
「次が最後の曲になります。聞いてください――」
 とだけ言った。
 最後の曲は、ポップで前向きな曲。そして、唯一の、オリジナル曲。泣いているわけにはいかない――。
 硝は、リズムに合わせて拳を突き上げた。
 いくつもより強く、高く。
 それに合わせて、コールが返ってくる。
 声援に、気持ちが加速していく。
 そして、この空間いっぱいに笑顔が広がって――。
 いつしか硝は、この快感の虜になっていた。
 メンバーと観客の一体感。誰もが笑顔になれる、最高の場所。
 最後の最後まで、この景色を目に焼き付けたくて、硝は会場の隅から隅まで、視線を送って――あることに気づいた。
 中央には、硝推しの若い男性。右手には、サキチを応援するこども達。左手には、杏菜をお姉さまと慕う女の子。そして、後方には懐メロに惹かれたおじさま達……。
 老若男女が集う、ペッパー&ミントならではの風景。こんな現場、きっとほかにない。
 ライブなら、ほかのアイドルグループに入ってもできる。けど、この雰囲気が作れるのは、ペッパー&ミントだけ――。
 これが好きだったんだと、ようやく硝は気づいた。
 だのに、今日のライブで最後だなんて――。

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