3
新宿から私鉄に乗ること二〇分。駅から五分ほど歩いたところに、英臣のマンションはあった。何度も通ったその道を、あたしは元気に歩いていた。睡眠も充分とって、いつになく体に力が満ちあふれている。
思えば昨日は、散々な一日だった。
出勤直後に課長から呼び出され、異動の内示を受けた。異動先は、関連会社の販売職。ショックだった。なんであたしがと、思った。我が営業部では、販売に回されることを「廃棄処分」と呼んでいる。事実上の左遷だ。どうもウチの会社では、「女子営業社員の最大の営業力はその若さである」と固く信じており、つまり若さがなくなった女子社員はお払い箱なわけである。事実、三十路に入った先輩たちはことごとく販売送りになり、実際に辞令を受けたら退職していく。
このシステムは社員には当然不評で、多くの人が、辞令が出そうになる前に転職する。実際あたしも、そろそろ次の職場を探しはじめなきゃいけないかと思っていたところだった。そんな矢先の異動告知だったのだ。
ウチの課には、三人あたしより年上の女子社員がいる。ダントツナンバーワンの成績を誇る彩乃さんは実力だけで残留は決定的。郁恵さんは上司とあやしいウワサがあって残留濃厚。もうひとりの早希さんは、外回りもせず課内の事務仕事を一手に引き受けていて、どうみても次は早希さんの番だったハズだ。それなのに、なんであたしが!
ウサばらししようと、この間の合コンで会った男の子に電話をした。あのメールをくれた、ちょっと好感触の子だ。ところが、今日は忙しいという。イヤな予感がして、その時に一緒だった友人に電話をかけてみた。案の定、恵美子がその子と約束しているという。しかも、
「毎日毎日メールくれるんで、最初はしつこいと思ったんだけど、とうとう折れちゃった」
とノロケられてしまった。
つまりソイツは、あたしには一週間後にメールして、恵美子には毎日メールしていたんである。相手によって作戦を変えていたというわけだ。そんなヤツにひっかかりそうになるなんて、なんたる屈辱!
しょうがないので、自宅でテレビ相手に備蓄してあったアルコール類を片っ端から飲み干した。予定通り寝坊して、会社には元気よく、
「今日は病欠します!」
と連絡した。最初は、一日ショッピングでウサ晴らししようと思っていたのだけれど、その間にふつふつと怒りがこみ上げてきた。英臣とは、やっぱりきちんとケリをつけなきゃ、気が治まらない。そしてあたしは、電車に飛び乗ったのだった。――確か今日が、帰国予定日のハズだ。
駅から出ると、おぼろげな記憶を頼りに歩き出した。もう夕方に近い時刻で、少々肌寒さを感じないわけでもないけれど、早足で歩いていたら、いい感じに体があったまってきた。
ほどなくして、英臣の住むワンルームマンションが見えてくる。
そこでようやく気付く。今日帰国予定だという話は、由利の彼氏が調べてあたしに伝えてきた。でも、何時につくかまではわからない。まだ自宅に帰ってきてなかったらどうしようかと一瞬頭をよぎったけど、ここまで来て引き返すのも癪だし、とりあえず行ってみることにした。
郵便受けがあるだけのロビーを抜けて、階段を登り、三階の手前から二軒目。
ふーっと息を吐いて気合を入れると、あたしは呼び鈴を押した。
――一秒、二秒、三秒。
返事がないところをみると、やっぱり帰ってなかったのか……そう思った瞬間、ドアが開いて、英臣が顔を出した。
4
「ぐえっ」
あたしの顔を見ると、英臣は妙な悲鳴をあげて、固まっている。
うっすらと焼けた顔は、ところどころ赤みを帯びていて、いかにも「南の国でバカンスを楽しんできました」という感じ。あたしはいろいろと振り回されていたのに、コイツはのんきに海外旅行かと思うと、憎らしくなってきた。
「どーも。お楽しみだったご様子で」
イヤミたっぷりに言ったのがちゃんと伝わったらしく、英臣は「えっと、あのぉ……」とごにょごにょ言っている。この期に及んで、まだなにか言い訳を考えているらしい。
おもしろいから、もうちょっとからかってやろうと思ったその時、
「どうかしたの?」
部屋の奥から、パジャマ姿の女が出てきた。――ははーん。これが「新しい彼女」ってわけね。
「あ、お客さんだった……」
彼女が言いかけたところで、
「ども。元カノの、茜です」
『元カノ』を力いっぱい強調しながら、あたしは彼女に手を振った。あたしの言葉を聞いた瞬間、
「あ、あ、あ……」
と英臣は、ドアノブに手を置いたまま、硬直してしまった。ようやく、事態を把握できたようだ。本人は、うまく立ち回れたと思い込んでいたんだろう。別れた原因はあたしにあって、別れた直後に新しい彼女ができたとしても、なにも悪くない……と。
そんな都合のいい言い訳、あたしは許さない。
どこに前の彼女と別れた直後に、新しい彼女とサイパン旅行にいく手際のいいオトコがいるっていうの。それ相応の期間二股かけてて、ちょうどいい理由を見つけた途端、これ幸いと別れ話を切り出した、ズルい男じゃないのさ。
「あの、元カノって……」
穏やかな声で言って、彼女は英臣を見た。一見すると、おとなしい印象の人だった。声からしても、たぶん誰の目からも「育ちのいい人」と思われているんだろう。でも、その目だけは違った。あれは、嫉妬の目だ。
「心配しないで。ちょっと、忘れ物を思い出したから」
あたしが彼女に向かって言うと、彼女はニヤリと笑った……ように見えた。少なくとも、心の中ではそうだったハズだ。
勝者の笑顔というか、女王様の顔だ。
考えてみればデパートなんていうのは女の園で、その中に少数のオトコを放り込めば、オトコの分捕り合戦がはじまる。つまり「ワタシが勝者」だと、彼女は言いたいのだろう。そしてあたしを「敗者」として、見下している。
ふん。こんなオトコ、取り返そうだなんて、思ってないわよ。
でも、自分の不始末を、あたしの責任にしようとしたことだけは、きっちりとカタをつけてやんなきゃ、気が済まない。
「あの、忘れ物って、えっと……」
おたおたと、英臣は話し出した。
……やっぱり。新しい彼女がこの部屋に出入りしてるってことは、あたしがこの部屋に置いてあったものは、すでに処分済みってことだ。もっとも、あたしがこの部屋に置いたままにしてあったものなんて思い出せないし、あったとしても捨てられて困るようなものはない。気に食わないのは、その根性だ。
「忘れ物っていうのは……」
言いながら、あたしは左手で、英臣の胸元を掴む。そして、右手を振り上げた。
「ひぃ」
英臣の悲鳴と、グキッという鈍い音。と同時に、指に走るズキズキとした痛み。
あれ?
平手打ちをしようとしたら、どうやらグーで殴ってしまったらしい。そういえば、何ヶ月かボクササイズに通ってたんだけど、その時のクセが出てしまったみたいだ。
「英ちゃん!」
彼女が、英臣に駆け寄る。まぁ、お熱いこと。
「どーも、お邪魔しました」
彼女に向かって、にこやかに言うと、あたしは英臣の部屋をあとにした。
ロビーを出ると、目の前にきれいな夕焼けが広がっていた。空が、色濃い赤で染まっている。
<こんな夕焼けのことを、茜空って呼ぶんだよ……>
そう教えてくれたのは、確かプラネタリウムのお兄さんだった気がする。映写ドームに映る必要以上に赤い夕焼けを見ながら、こんなに赤くなるわけないじゃん、と思ったのに、映写が終わって外に出たら、さっき見たのと同じような茜空が広がっていて、妙に感動したんだ。
ひときわ高く見える秋の空に、あたしの空が広がっている――。
ようやく気分が晴れた。
あたしらしくなかったあたしを振り払って、あたしの空が戻ってきたんだ。
そう思うとなんだかうれしくて、あたしはしばらく茜空をながめていた。
5
腕の中から図面を入れた筒が転がり落ちて、廊下にぽこーんという情けない音が響いた。それを聞きつけて、喫煙所兼給湯室から由利が顔を出した。
「あら、茜じゃない。ちょっと一服していかない?」
あたしは、
「ごめん、急いでるの。また、今度ね!」
そう言ながら、図面筒を拾い上げた。
――あれからあたしは、異動を承諾した。話を聞けば、いままでの「廃棄処分」とは違って、アンテナショップを立ち上げるので、そのスタッフに加わって欲しいということだった。課長はうすうす、あたしが営業職に向いてないことに気付いていたらしい。正確に言うと、ルート営業ばかりの、ウチの会社の営業職としては、だけど。
半信半疑のまま、アンテナショップの顔合わせに出席した。各部署から集められたスタッフは、ヤル気の塊のような人たちばかりだった。壮絶なジャンケン大会を勝ち抜いて、スタッフ入りを勝ち取った人もいた。そこで紹介されたプロジェクトリーダーが、紗恵子さんだった。このプロジェクトのためにヘッドハンティングされた紗恵子さんは、エリートコースに乗った女性特有のキツさがなく、それどころか、
「わたしが責任取るから、やっちゃいなさい」
が口癖という、親分肌な人だ。
紗恵子さんに妙に気に入られてしまったあたしは、次々と見たことも聞いたこともないようなジャンルの仕事をまかせられるようになった。やっかいで面倒で難しいことばかりだけれど、いまのあたしには、それが楽しい。
「来週、合コンの予定があるんだけど……」
言いかけた由利に、
「それどころじゃないからパス。またね!」
あたしは手を振って、エレベーターに飛び乗った。
Fin.
1 俊夫・2004
間違いなく、一目惚れなんだと思う。
目の前にあらわれた瞬間から心を奪われ、いままでのポリシーもこだわりも、すべて吹き飛んでしまった。寝ても覚めても、頭からその姿が離れない。「運命の出会い」っていうのは、まさにこのことなんだろうと思う。
実際にその出会いのあと、ボクの運命は大きく変わってしまった。それさえなければ、ボクはたぶん、違う人生を歩んでいただろう。少なくとも、運命の出会いを用意してくれた神様には感謝しなくちゃいけないかな、とは思う。それが多少、胸の痛みを伴うものだとしても、だ。
「わぁ、かわいい!」
すっかり仕度を終えた凛が、コイツを見てそう言った。
最愛の凛にほめられたことがすごくうれしくて、ボクは思わず頬がゆるんでしまう。
「コイツの良さがわかるなんて、凛ももう大人だな」
そう言いながら、ボクは凛を抱き上げて、助手席へと座らせた。
「ひとりでできるのにぃー」
凛はぷくーっと頬を膨らませたが、そんなことはお構いなしに、ボクは助手席のドアを、ゆつくりと閉めた。いくらコイツが軽自動車とはいえ、クーペスタイルのドアは凛がひとりで操作するには、まだ大きすぎる。
凛はもうすぐ六歳。大事な大事な、ボクの娘だ。
「おーぷんかーって、屋根がないの?」
普通のクルマなら屋根があるハズの場所を、凛は見上げた。
「そうだよ。だからオープンカーって言うんだ」
ボクの言葉にも、凛はよくわかっていないようだった。
運転席に座ると、まず助手席のシートベルト引き出して、ブランケットと一緒に締めた。外気に触れたまま走るオープンカーでは、ブランケットは欠かせない道具のひとつだ。もちろん、凛はジャンパーとマフラーと手袋と毛糸の帽子という重装備。
凛の準備が終わったら、自分のシートベルトを締めて、エンジンをかける。ボクの方は、運転の邪魔になるからブランケットはなし。手袋は指先のない革のヤツ。あとはマフラーとベースボールキャップ。クルマの運転は、一種のスポーツだし、これくらいの装備で大丈夫。
アクセルを軽くふかすと、車内に少々甲高いエンジン音がとどろいた。
「あー、うるさいー」
両手で耳をふさぎながらも、凛の顔はどこか楽しそうだ。
凛がカプチーノに乗るのは、初めてだった。凛が生まれてからすぐ、ミニバンを買って、このクルマは実家に預けて置いたのだから。
カプチーノは軽自動車のオープンカーで、二人乗り。新しい家族ができた時点で、当然このクルマは処分されるべきものだった。でも、どうしてもボクは、このクルマを手放す気にはなれなかったんだ。だって、はじめて……そして唯一、一目惚れしたクルマだから。そして、このクルマには、洋子の思い出が詰まっているから。
程よく暖気が済んだところで、暖房を全開にする。走り出す前は暑いくらいで、ちょうどいい。
「さて、どこにいこうか」
凛に聞くと、
「んーとねー、たくさん走るところ」
と、答えた。
「じゃあ、ぐるぐる回るところいこうか」
「わーい」
ボクの言葉に、凛は手を叩いて喜んだ。
その仕草に、洋子の姿がダブる。
それは、完全に一目惚れだった。
「運命の出会い」なんて信じるほどのロマンチストではなかったボクが。
なんの疑いもなく。これこそ運命の出会いなんだと思った。
2 俊夫・1992
その時ボクらは、オープンカーに乗っていた。後期から始まった大学の授業で、買い出しにいく必要があって、ジャンケンに負けたボクら3人と担当講師のクルマで出かけることになった。その講師のクルマがオープンカーだったのだ。一日中薄曇りで、風の強い肌寒い日だった。ちょうどそれが木枯らし一号だったと、あとから知った。
「センセ、どうして幌を閉めないッスか?」
ボクと同じく買出し組になった達郎が聞くと、
「幌が壊れちゃってさぁ。閉めたくてもしまらないんだよ」
と、その講師はあっさり言った。聞けば、お金がなくて修理できないのだという。ボクらが二十歳の貧乏学生なら、彼もまた貧乏講師なのだった。
小一時間ほどの『極寒ドライブ』の苦行を終え、構内に戻ってきたとき、一人の女の子が軽くウェーブした髪をなびかせて、ボクらに駆け寄ってきた。
「いいなぁ、オープンカー」
その声を聞いた瞬間から、ボクは身動きが取れなくなってしまった。
よく小説で「鈴が鳴るような綺麗な声」という表現がある。それまでのボクは、「鈴が鳴るような綺麗な声」がどんなものかまったく想像できなかったけど、彼女の声を聞いた途端、これこそが「鈴が鳴るような綺麗な声」なんだと直感した。
ボクは容姿にそれほどこだわる方じゃないし、性格が合うことが大事だと思っていたのだけれども、そんなものさえ、彼女の声を聞いた瞬間、吹き飛んでしまった。彼女がどんな人かまったくわからないうちに、声を聞いただけでボクは恋に落ちてしまったのだと思う。
「そんなことより、あたしたちを置いて出かけちゃうなんてぇ…」
彼女は、ボクに話しかけたてきた――というのはボクの錯覚で、彼女はどうやらボクの前に座っている律子に話しかけているようだった。彼女は律子の知り合いらしい。
律子は、この貧乏講師が担当する授業ではじめて会った。もちろんそれまでは、律子の名前も顔も知らなかったけど、律子と同じ授業になってよかったと、とっさに感じた。
「しょうがないでしょ」
そっけなく言いながら、律子はクルマを降りた。そのまま彼女を無視するかのように、クルマの後へ回って、トランクから荷物を取り出す。
「だって、ノリちゃんと出かけるって……」
彼女は律子についていく。
ボクもあわててクルマから降りて、律子の降ろした荷物を手に持った。
「だから、わたしは忙しいの」
律子は、面倒くさそうに言った。「わかる?」
荷物ボクが持っていくから――ボクがそういいかけたとき、
「さ、行こう」
律子がボクを見ていった。思い返してみれば、この時が律子とのはじめての会話だった気がする。
律子に促されるまま、彼女をそこに残して、ボクらは研究室へと急いだ。
彼女と律子はどんな関係なのか、なにを約束したのか、なんで律子はそれを破ったのか。聞きたいことは山ほどあった。けれども――まずは、名前だ。
「いまの娘は?」
階段を登りながら、ボクは聞いた。さっきはじめて会話したばかりだというのに、ずっと知り合いだったかのように会話できた自分が不思議だった。
「洋子のこと?」
律子は低い声で答えた。「あたしの妹」
「出かける約束してたみたいだけど、大丈夫なの?」
「いいのよ、本当に」
それだけ言うと、律子は歩く速度を速めた。それ以上は、聞かないほうがいいらしい。
でも情報は得た。彼女の名前は洋子ということ。そして、律子の妹だということ。いまはそれだけで充分だ。
それが、洋子との出会いだった。
――それから2週間ほどして、ボクはもうひとつの「運命的な出会い」をすることになる。
昼休みに外で食事をして、校舎に戻るときだった。信号待ちをしていたら、目の前をそのクルマが通り過ぎた。真っ赤で、小さくて、かわいい顔つきのオープンカー。視界に入っていたのはほんの一瞬だというのに、その姿が頭から離れなくなってしまった。
校舎に戻ると、クルマに詳しい友人に、あれこれ尋ねた。答えは、すぐに返ってきた。あんなオシャレにクルマは外車に違いないと思っていたら、なんと国産車だった。軽自動車なのに二人乗りでオープンカー。それが、カプチーノだった。
そのときにはもう、カプチーノを買うことに決めていた。
それまでクルマは道具で、ユーティリティ性の高いハッチバックこそがベストだと思っていたのに、非実用的なカプチーノに一目惚れしてしまった。クルマに詳しいその友人は、
「カプチーノは、丸っぽくって女の子向きだよ。ビートの方がいいんじゃない?」
と言ったが、そんな言葉などボクの耳には入らなかった。
それはあくまでも、ボクとカプチーノとの運命的な出会いなんだと、信じて疑わなかった。たとえ、洋子の言葉がきっかけだったとしても。