北風の季節(2)

2 俊夫・1992

 その時ボクらは、オープンカーに乗っていた。後期から始まった大学の授業で、買い出しにいく必要があって、ジャンケンに負けたボクら3人と担当講師のクルマで出かけることになった。その講師のクルマがオープンカーだったのだ。一日中薄曇りで、風の強い肌寒い日だった。ちょうどそれが木枯らし一号だったと、あとから知った。
「センセ、どうして幌を閉めないッスか?」
 ボクと同じく買出し組になった達郎が聞くと、
「幌が壊れちゃってさぁ。閉めたくてもしまらないんだよ」
 と、その講師はあっさり言った。聞けば、お金がなくて修理できないのだという。ボクらが二十歳の貧乏学生なら、彼もまた貧乏講師なのだった。
 小一時間ほどの『極寒ドライブ』の苦行を終え、構内に戻ってきたとき、一人の女の子が軽くウェーブした髪をなびかせて、ボクらに駆け寄ってきた。
「いいなぁ、オープンカー」
 その声を聞いた瞬間から、ボクは身動きが取れなくなってしまった。
 よく小説で「鈴が鳴るような綺麗な声」という表現がある。それまでのボクは、「鈴が鳴るような綺麗な声」がどんなものかまったく想像できなかったけど、彼女の声を聞いた途端、これこそが「鈴が鳴るような綺麗な声」なんだと直感した。
 ボクは容姿にそれほどこだわる方じゃないし、性格が合うことが大事だと思っていたのだけれども、そんなものさえ、彼女の声を聞いた瞬間、吹き飛んでしまった。彼女がどんな人かまったくわからないうちに、声を聞いただけでボクは恋に落ちてしまったのだと思う。
「そんなことより、あたしたちを置いて出かけちゃうなんてぇ…」
 彼女は、ボクに話しかけたてきた――というのはボクの錯覚で、彼女はどうやらボクの前に座っている律子に話しかけているようだった。彼女は律子の知り合いらしい。
 律子は、この貧乏講師が担当する授業ではじめて会った。もちろんそれまでは、律子の名前も顔も知らなかったけど、律子と同じ授業になってよかったと、とっさに感じた。
「しょうがないでしょ」
 そっけなく言いながら、律子はクルマを降りた。そのまま彼女を無視するかのように、クルマの後へ回って、トランクから荷物を取り出す。
「だって、ノリちゃんと出かけるって……」
 彼女は律子についていく。
 ボクもあわててクルマから降りて、律子の降ろした荷物を手に持った。
「だから、わたしは忙しいの」
 律子は、面倒くさそうに言った。「わかる?」
 荷物ボクが持っていくから――ボクがそういいかけたとき、
「さ、行こう」
 律子がボクを見ていった。思い返してみれば、この時が律子とのはじめての会話だった気がする。
 律子に促されるまま、彼女をそこに残して、ボクらは研究室へと急いだ。
 彼女と律子はどんな関係なのか、なにを約束したのか、なんで律子はそれを破ったのか。聞きたいことは山ほどあった。けれども――まずは、名前だ。
「いまの娘は?」
 階段を登りながら、ボクは聞いた。さっきはじめて会話したばかりだというのに、ずっと知り合いだったかのように会話できた自分が不思議だった。
「洋子のこと?」
 律子は低い声で答えた。「あたしの妹」
「出かける約束してたみたいだけど、大丈夫なの?」
「いいのよ、本当に」
 それだけ言うと、律子は歩く速度を速めた。それ以上は、聞かないほうがいいらしい。
 でも情報は得た。彼女の名前は洋子ということ。そして、律子の妹だということ。いまはそれだけで充分だ。
 それが、洋子との出会いだった。
 ――それから2週間ほどして、ボクはもうひとつの「運命的な出会い」をすることになる。
 昼休みに外で食事をして、校舎に戻るときだった。信号待ちをしていたら、目の前をそのクルマが通り過ぎた。真っ赤で、小さくて、かわいい顔つきのオープンカー。視界に入っていたのはほんの一瞬だというのに、その姿が頭から離れなくなってしまった。
 校舎に戻ると、クルマに詳しい友人に、あれこれ尋ねた。答えは、すぐに返ってきた。あんなオシャレにクルマは外車に違いないと思っていたら、なんと国産車だった。軽自動車なのに二人乗りでオープンカー。それが、カプチーノだった。
 そのときにはもう、カプチーノを買うことに決めていた。
 それまでクルマは道具で、ユーティリティ性の高いハッチバックこそがベストだと思っていたのに、非実用的なカプチーノに一目惚れしてしまった。クルマに詳しいその友人は、
「カプチーノは、丸っぽくって女の子向きだよ。ビートの方がいいんじゃない?」
 と言ったが、そんな言葉などボクの耳には入らなかった。
 それはあくまでも、ボクとカプチーノとの運命的な出会いなんだと、信じて疑わなかった。たとえ、洋子の言葉がきっかけだったとしても。

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