北風の季節(3)

3 律子・1992

「あんたも結構しつこいわねぇ」
 律子はあきれたように言いながら、ボクの目の前に座った。
「しつこいって、なにが?」
 ボクは、読みかけの雑誌から顔をあげた。
「だからこれよ」
 そう言って、律子はボクの目の前にある雑誌をつつく。それは、カプチーノの紹介雑誌だった。新車が出ると同時に発売される、速報カタログのひとつだ。ボクはここ一ヶ月、暇があるとこれを繰り返し読んでいる。次の授業が休講になってしまったので、ボクはいつものように学食で、お茶しながらカプチーノの速報雑誌を読みふけっていたのだ。
「ま、読むだけならタダだしね」
 妙に納得したように言った律子の目の前に、ボクは一本のキーを差し出した。それを手に取ると、律子は「えっ」と小さく叫んだ。
「キーがあるってことは、買っちゃったのぉ!?」
 大きく息をしたあと、律子は言った。「アンタ、ばか?」
 それでもボクは、ニヤニヤと笑っていた。
 衝撃の出会いから一ヵ月後、ボクはカプチーノを手に入れてしまったのだ。
 カプチーノに出会ってからすぐ、ディーラーに行ったら、あっさり「半年待ちです」と言われてしまった。もともと生産台数が少ないのだから、それはしょうがない。その間バイトして、頭金でも貯めておけという天からの声だと思い、予約だけいれた。
 それからボクは、バイトを変えた。夕方からのバイトと夜のバイトと、ふたつ掛け持ちだ。もちろん、毎日両方の仕事をするわけではないにしろ、体力に自信のないボクには堪えた。体はきつかったけど、バイト先の仲間もいい人だし、なにより「カプチーノを買う!」と思えば、それほどつらいとも思わなかった。カプチーノで洋子とドライブしたら楽しいだろうな、という気持ちがなかったといえば、ウソになる。というより、いつのまにか、そっちの方が「本命」になっていた気がする。
 そして三日前、突然ディーラーから電話があった。特別な事情があって、カプチーノの中古車が手元にあるんだけど、それを買わないかというのだ。しかも、まだ一〇キロも走っていない新車同様の状態なのに、普通の中古車価格より安くしてくれるという。ボクは、その話に飛びついた。
 ディーラーで話を聞いたら、納車直前に事故を起こしてしまって、本来納車する人には別の新車をあてがうことになったのだという。予約待ちの人に、その「事故車」を紹介したけど、みんなに断られて、ボクの順番になったらしい。
 事故車であろうと、ちゃんと走ればボクには問題ないし、それにディーラーの人もそういうクルマを渡すのは気が引けるようで、いろいろとサービスしてくれるという。なにより、カプチーノが安く手に入るのはありがたいことだった。
「目の前にニンジンぶらさげられたら、そりゃ飛びつくでしょ」
 ボクが言うと、
「イヤね、オトコって。犬だって『待て』くらい覚えるわよ」
 それだけ言って、律子は黙ってしまった。
「ボクは犬以下ですか……」
 小さい声で反論して、ボクはコーヒーをすすった。カップ1/3ほどになっていたコーヒーは、隙間風のせいでほとんど冷たくなっていた。
 律子の沈黙が妙に怖くて、そろそろ逃げ出そうかと思ったとき、洋子があらわれた。
「ちょっとお邪魔しますねぇ~」
 元気な声でそう言いながら、洋子は律子の隣に座った。「俊夫さんは、いつもの本ですか?」
「コイツね、買っちゃったのよ」
 律子は、さっきボクが渡したキーを、洋子に見せた。
「ええー、すごーい」
 まるで自分のことのようにうれしそうな声で、洋子は言った。「この間りっちゃんがオープンカーに乗ってたのを見て、あたしも乗りたいと思ってたところなんですよー。いいなぁ」
 その場にボクがいたことを覚えてもらっていなかったことに、ちょっとショックを受けつつも、
「今度乗せてあげよっか?」
 ボクがそう言うと、
「いいんですかぁ? わーい」
 洋子は、ぱちぱちと手を叩いた。
 こんなに喜んでくれるなんて、いい子だなぁ。「アンタ、ばか?」が第一声の律子とは大違いだ。これで普段は仲のいい姉妹なんだから、よくわからない。
 ――じゃあ、いつ頃がいい?
 そう聞こうと思った途端、洋子がポケットベルを取り出した。
「ごめんなさい、ちょっと電話してきますね」
 そう言って、洋子は学食の入口近くにある公衆電話に走っていった。
 それにしても元気な子だ。洋子の元気は、こっちまで元気にしてくれるのがいい。――なんてことを考えていたら、
「ふーん、そういうことね」
 冷めた目でボクを見ながら、律子は言った。「あたしがなんとかしてあげよっか?」
「なんとか……って、なに、が?」
 冷静に言ったつもりだけど……ドキドキしているのが、自分でもわかる。
「決まってるじゃない。洋子のことよ」

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