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控え室のドアを開けると、むせ返るようなにおいが襲ってきて、硝は眉をしかめた。ありとあらゆる、化粧品のにおいが混ざった「女性の聖域」特有の匂い。何度経験しても、硝はこの匂いが好きになれなかった。
ざっと室内を見渡した硝は、部屋の中央付近に玖理子の姿を見つけ、その横に座った。
「おっはよー」
硝が声をかけると、
「おはよ」
鏡を見たまま、玖理子は答えた。
「めっちゃ気合入ってますね」
「ラストチャンスだからね」
そう言って、玖理子は丁寧にマスカラを塗りつけた。そうとう時間をかけたのか、玖理子のまつ毛は、アニメ絵かのようにくっきり・しっかりと立っている。「昨日まつげエクステをつけ放題でやってきたし、新品のマスカラ下ろしてきたし」
「新品!?」
「これこれ」
ようやく玖理子は硝に顔を向けた。「繊維入りなのにダマにならないの」
硝は、手渡されたマスカラの容器を、まじまじと見つめた。聞いたことないブランドだが、高そうな雰囲気は感じる。
「すご……」
本気度の高さに、硝は鳥肌が立った。
玖理子が「最後のビッグチャンス」と言うのにも、理由があった。
アイドルは中学生・高校生が圧倒的多数だ。当然募集も、その年代が中心になる。八割以上が十八歳未満で、高校を卒業しても応募できるのは数えるほど。二十歳を過ぎれば皆無だ。今回は奇跡的に「二十歳以下」という応募条件だったので、ギリギリ玖理子も応募することができた。
しかも、今回は「近々メジャーデビューするのではないかとウワサされているグループの二期生募集」だ。合格すれば、「メジャデビューしたグループの一員」となるわけだ。
すでにメジャーなグループでも、新規募集はある。が、すでにメジャーなだけに、合格するのは「将来性のある子」だし、そもそも競争率だって高い。それに比べたら、今回のオーディションはメジャーなグループではないから競争率も低いし、年齢条件もゆるい。玖理子にとっては「人生最大にして最後のチャンス」なのだ。
「目指すは、『即戦力として採用』よ」
力強く、玖理子は言った。
グループアイドルの場合、全員でステージに立つということはほとんどない。メンバーの中から、数人が選ばれて、ステージに立つのである。そうすると、「よく出るメンバー」と「あまり出ないメンバー」が出てくる。当然、人気のあるメンバーが、「よく出るメンバー」になる。しかし、いつでも人気のメンバーの都合がつくとは限らない。そうしたときに、穴埋めをするメンバーを「アンダー」と呼ぶ。
アンダーとして選ばれるにも優先順位はある。今回オーディションに合格しても、二期生だから出番は少ないだろうけど、即戦力として判断されれば、二期生内での優先順位は確実に上になる。それが、玖理子の狙いだった。
「ずいぶんいろいろと考えてるんですね」
硝がつぶやくと、
「当たり前じゃない」
玖理子は即答した。「待ってるだけじゃ、チャンスは来ないのよ。特にあたしみたいな年寄りにはね。アンタも、あっという間に年取るんだからね」
そういわれて、硝はドキッとした。
世間だと高校一年生は若い方だが、アイドル業界では決して若くないのだ。今日のオーディションだって、半分は中学生だし、小学生とおぼしき子も結構いる。
「それよりさぁ」
いきなり、玖理子は硝に顔を近づけた。「今回のオーディション、本命がいないと思わない?」
「本命?」
そう言われて、硝はゆっくりと控え室を見回した。
オーディションにはたいてい、「これは合格するだろう」というオーラが出ているような子が、2・3人はいるものだ。しかし、今回はそういう子が見当たらない。アイドルのオーディションだから、かわいい子がほとんどだが、「この子はスターになる」というほどの輝きを感じられる子は、この中にはいなかった。
「言われてみれば確かに」
「なんなら、アンタが一番手よ」
「それはないでしょ」
とりあえずそう返事をしたものの、硝自身も「この中なら、あたしが選ばれても不思議ではない」と思っていた。オーディションを受けに来ているのだから、合格すればうれしい。が、どこかで「それでいいのか」という気持ちもある。
しばらくすると、スタッフが控え室に入ってきた。
「それではダンス審査をはじめますので、ゼッケンをつけて移動してください」
その言葉を聞いて、控え室にいた面々が、だらだらと立ち上がった。
「ま、硝はフツーにかわいいから、どこかに引っかかるだろうけど……今回だけは、抜け駆けしないでよね」
そうつぶやきながら、玖理子も立ち上がった。