夜景の季節(3)

 あれから三年。こうしてまた二人は、東京タワーに上っている。たった三年しか経っていないのに、こんなに穏やかな気持ちで貢と並んで夜景を眺めていられるのが、衿子にはなんだか不思議だった。――だから、素直にこう尋ねることができた。
「結婚、するんだってね」
 貢は、眉一つ動かさなかった。
「ずいぶんと、情報が早いな」
 そう言ったきり、貢はガラス一枚向こうの大海原に見入っている。
「女ですもの、情報網の一つや二つ、持ってるわ」
 ――衿子がその話を聞いたのは、母親からだった。
「貢さん、結婚するらしいわよ」
 夕食の支度をしながら、母は得意気に言った。「お相手は、会社の後輩ですって」
「だから、何なのよ」
 冷蔵庫からビールの缶をひょいと摘み出しながら、衿子は聞き返した。
「つまり、あんたもそろそろ身を固めたら、ってこと」
「話をすぐ、そっちの方へ持っていくんだから」
 衿子は、グラスに開けたビールをぐいぐい煽った。衿子の母は、なにがなんでも娘を結婚させたいらしく、一日に一回は必ずこの話を出すのである。
「いまはまだ仕事が楽しいのよ」
 衿子も負けずに、決まり文句を返したものの……それからきっちり一週間後、衿子は貢に電話をかけた。
「東京タワーで、会おうか」
 そう言ったのは、貢の方だった。その時から、衿子の中にある種の予感めいたものが生まれていた。
「――結婚しようとは、ずいぶん前から考えていたんだ」
 一つ一つの言葉を胃の奥から吐き出すように、貢は呟いた。「いろいろ考えたけど、終わった場所からまた始めたい、って思って」
 やっぱりな……と衿子は思った。
 貢はもともと、結婚願望の強いタイプだった。特に「自分が帰ってくるときに、誰かが待っていてくれる」ことを望んでいた。両親共働きで、小さい頃からひとりで過ごす時間が長かった影響もあるかもしれない。
「相手が違うんじゃないの?」
 そう言って、衿子はじっと貢の目を見た。
「――知ってたのか」
 ふぅと貢は息を吐いた。「実は、政略結婚させられそうになっててね」
「政略結婚ねぇ」
 貢が言うには、会社の後輩というのが代議士の娘で、貢の母親が官僚であることが知られると、自分の知らないところで結婚話が進んでいた――というのが、事の真相らしい。
「これもなにかの縁かと思ったけど……正直、合わないみたいでね。かといって、なにもしないままだと、押し切られるし。いろいろ考えて、やっぱりオマエいいんだって気づいたんだよ。そんなときに電話がきたたから、これはもう運命だろうと思ってね」
 貢の話を、足元を見ながら、衿子はじっと聞いていた。
 確かにあの頃は楽しかった。二人でいれば、コップの水がこぼれただけでも、笑いあえた。こんなに気があった人はいないと、衿子もわかっている。
「だから…」
 真剣な口調で、貢は言った。「もう一度、君とやり直したいんだ。この場所から」
 衿子は、大きく息を吸った。
 ――東京タワーという言葉を聞いてからずっと、わかっていた。この人は、なんの言い訳もなしにここへ来れる人ではない、と。
「わたしも同じことを、考えてたわ」
 思いの外早かった衿子の返事に、貢はちょっと驚いた。
 眼下を埋め尽くす明りにも、いろいろな種類がある。遠く離れているのに、呼吸を合わせるかのように、同時に点滅し続けるもの。近くにいるのに、一瞬は同調しても、また別々のテンポで点滅するもの。昼間にはわからないけれど、夜景の中に埋もれてみると、はっきりと浮かび上がってくる。
「だから、結婚することにしたの」
 衿子は、ゆっくりと振り返った。そして、貢がなにか言うより早く、
「ここで、結婚しようって言ってくれた人に」
 そう言って、薬指に真新しい指輪の左手を見せた。「昨日、もらっちゃった」
「――それって、つまり……」
 予想外の言葉に、貢はそう言ったっきり、黙ってしまった。
 衿子のお相手は、半年前に知り合った人だった。最初は「いい人、でもつまらない人」と思っていた衿子だったが、彼と話していると気分が落ち着くことに気づいた。付き合ってみると、会話がなくとも――そばにいるだけでも、不思議と安心できると自覚したのがつい最近。
 相性がいいのはわかる。でも、それだけでいいのかとも衿子は思う。
「昨日、プロポーズされて、正直迷ってたんだけど」
 衿子は、会心の笑顔を見せて言った。「今日、あなたと会って決めたわ。彼と結婚しようって」
 たぶん、彼との結婚生活は、刺激的ではないと衿子もわかっていた。それを臨むなら、きっと貢の方がいい。けれど、衿子が欲していたのは、安らぎだった。彼となら、一生穏やかな気持ちで過ごせる……。
「とりあえず、おめでとう」
 ようやく、貢が口を開いた。「そんな相手がいるなんて、知らなかったよ」
「ありがと」
 短く、衿子は答えた。「決心できたのもあなたのおかげだから、感謝しなくちゃ」
「あんまりうれしくない感謝のされかただな」
 むくれる貢を尻目に、晴れやかな笑顔で、衿子は言った。
「それより、今日の夜景は、綺麗に見えない?」
「みんな帰省して東京に人がいないから、空気がきれいなだけだよ」
 ぶっきらぼうに、貢は答えた。
「じゃあ、夜景は今が旬なんだ」
「ばーか」
 それっきり、貢は名残惜しそうに東京の明りを眺めていた。

Fin.

Comments are closed.