柚子湯の季節(3)

 スポーツジムへいこうとマンションを出たところで、亮が待ち伏せをしていた。
「お嬢さん、お出かけですか?」
 そう言いながら、亮はイヤミったらしく、指先でクルマの鍵を回した。「よろしければ、お送りしましょうか?」
 亮の横には、やや小ぶりなに銀色のクルマが置いてあった。
 わたしはクルマをちらっと見ると、
「ガキには過ぎたオモチャね」
 と言ってやった。
 アウディTTクーペ。新車で四〇〇万、中古車でも二〇〇万はするスポーツカーだ。フェラーリと比べれば、スポーツカーとしては安い部類だけれども、価格だけで言えば「それなりのクルマ」ではある。
 母によると、亮の職業は「将来の大俳優の卵」だそうである。それがウソじゃないにしろ、まともな収入を得ているとは思えないし、そもそもその肩書きだって、どこまで信用できるかあやしいものだ。
「この間のお詫びにと思って」
 この間の図々しい態度とは一変して、礼儀正しいオトコを装っている。その見え透いた演技が、腹立たしい。
「クルマで送ってくださるの? 歩いて三分のスポーツジムへいくのに?」
 それだけというと、わたしは亮を残して歩き出した。
「いいから乗っていけって」
 あわてた亮が、わたしについてくる。
 一昨日の「不法侵入」事件のあと、わたしは母に詳しい事情を聞いた。
 いままでアパートに住んでいたのだが、事情があって、追い出される寸前だったらしい。その時に、父が死んだ話を伝え聞いて、わたしに連絡をとったのだという。よくよく話を聞くと、父と母はときどき手紙のやりとりをしており、わたしの電話番号やここの住所も、父から聞いていたということだった。
 父が、母と連絡を取っていたなんて、わたしはまったく知らなかった。そんな素振りもまったく感じ無かった。わかっていれば、こうなる前に手を打てたのに…。
 それよりも気になったのは、母が二言目には、
「亮ちゃんが……」
 と言うことだった。正直、一度家族を捨てた人が、娘と同じ年のころのオトコに尽くすというのがよくわからない。わかりたくない。
 一刻も早く立ち去って欲しいという気持ちには変わりがないが、行くあてのない人を外に放り出すのもしのびないので、
「亮は家に上げないこと。いくところがないのなら一週間は居てもいいが、すぐに転居先を探すこと」
 と申し渡した。しかし、その時亮には「わたしの前に姿を現すな」と言っておくべきだったのかもしれない。
 ――スポーツジムの手前の信号で立ち止まると、しつこく亮が話しかけてきた。
「アンタ、淑子を追い出したいと思ってんだろ?」
 声のトーンが変わった。「なら、協力してやってもいいんだけど」
 罠だと、すぐに気付いた。でもわたしは、あえてその罠にはまってあげることにした。
「……条件は?」
 わたしは聞いた。
 信号が青に変わる。視線を前に向けたまま、わたしは歩き出す。
「条件はひとつ」
 わたしについて歩きながら、亮が言った。「アンタが俺と一緒に暮らすこと。簡単なハナシだろ?」
 十五年前、家を出た母。その母を恨んでいるであろう私。それならば、母を追い出すことが最優先事項であるとコイツは踏んだのだ。
 ――やっぱり。
 エサに食いついてきたのは、亮の方だった。
 信号を渡り終えると、すぐ目の前が目的のスポーツジムだった。入口で待っている真琴の姿が見える。
「残念ながら、その提案は即刻却下ね」
 そう言いながら、わたしは真琴の横に立って、よれみよがしに真琴の手を握る。「お見送りご苦労!」
 それだけ言うと、わたしはスポーツジムの中に入っていった。
「けっ。そういうことかよ」
 わたしの背後で、亮は吐き捨てるようにそう言った。

夜景の季節(3)

 あれから三年。こうしてまた二人は、東京タワーに上っている。たった三年しか経っていないのに、こんなに穏やかな気持ちで貢と並んで夜景を眺めていられるのが、衿子にはなんだか不思議だった。――だから、素直にこう尋ねることができた。
「結婚、するんだってね」
 貢は、眉一つ動かさなかった。
「ずいぶんと、情報が早いな」
 そう言ったきり、貢はガラス一枚向こうの大海原に見入っている。
「女ですもの、情報網の一つや二つ、持ってるわ」
 ――衿子がその話を聞いたのは、母親からだった。
「貢さん、結婚するらしいわよ」
 夕食の支度をしながら、母は得意気に言った。「お相手は、会社の後輩ですって」
「だから、何なのよ」
 冷蔵庫からビールの缶をひょいと摘み出しながら、衿子は聞き返した。
「つまり、あんたもそろそろ身を固めたら、ってこと」
「話をすぐ、そっちの方へ持っていくんだから」
 衿子は、グラスに開けたビールをぐいぐい煽った。衿子の母は、なにがなんでも娘を結婚させたいらしく、一日に一回は必ずこの話を出すのである。
「いまはまだ仕事が楽しいのよ」
 衿子も負けずに、決まり文句を返したものの……それからきっちり一週間後、衿子は貢に電話をかけた。
「東京タワーで、会おうか」
 そう言ったのは、貢の方だった。その時から、衿子の中にある種の予感めいたものが生まれていた。
「――結婚しようとは、ずいぶん前から考えていたんだ」
 一つ一つの言葉を胃の奥から吐き出すように、貢は呟いた。「いろいろ考えたけど、終わった場所からまた始めたい、って思って」
 やっぱりな……と衿子は思った。
 貢はもともと、結婚願望の強いタイプだった。特に「自分が帰ってくるときに、誰かが待っていてくれる」ことを望んでいた。両親共働きで、小さい頃からひとりで過ごす時間が長かった影響もあるかもしれない。
「相手が違うんじゃないの?」
 そう言って、衿子はじっと貢の目を見た。
「――知ってたのか」
 ふぅと貢は息を吐いた。「実は、政略結婚させられそうになっててね」
「政略結婚ねぇ」
 貢が言うには、会社の後輩というのが代議士の娘で、貢の母親が官僚であることが知られると、自分の知らないところで結婚話が進んでいた――というのが、事の真相らしい。
「これもなにかの縁かと思ったけど……正直、合わないみたいでね。かといって、なにもしないままだと、押し切られるし。いろいろ考えて、やっぱりオマエいいんだって気づいたんだよ。そんなときに電話がきたたから、これはもう運命だろうと思ってね」
 貢の話を、足元を見ながら、衿子はじっと聞いていた。
 確かにあの頃は楽しかった。二人でいれば、コップの水がこぼれただけでも、笑いあえた。こんなに気があった人はいないと、衿子もわかっている。
「だから…」
 真剣な口調で、貢は言った。「もう一度、君とやり直したいんだ。この場所から」
 衿子は、大きく息を吸った。
 ――東京タワーという言葉を聞いてからずっと、わかっていた。この人は、なんの言い訳もなしにここへ来れる人ではない、と。
「わたしも同じことを、考えてたわ」
 思いの外早かった衿子の返事に、貢はちょっと驚いた。
 眼下を埋め尽くす明りにも、いろいろな種類がある。遠く離れているのに、呼吸を合わせるかのように、同時に点滅し続けるもの。近くにいるのに、一瞬は同調しても、また別々のテンポで点滅するもの。昼間にはわからないけれど、夜景の中に埋もれてみると、はっきりと浮かび上がってくる。
「だから、結婚することにしたの」
 衿子は、ゆっくりと振り返った。そして、貢がなにか言うより早く、
「ここで、結婚しようって言ってくれた人に」
 そう言って、薬指に真新しい指輪の左手を見せた。「昨日、もらっちゃった」
「――それって、つまり……」
 予想外の言葉に、貢はそう言ったっきり、黙ってしまった。
 衿子のお相手は、半年前に知り合った人だった。最初は「いい人、でもつまらない人」と思っていた衿子だったが、彼と話していると気分が落ち着くことに気づいた。付き合ってみると、会話がなくとも――そばにいるだけでも、不思議と安心できると自覚したのがつい最近。
 相性がいいのはわかる。でも、それだけでいいのかとも衿子は思う。
「昨日、プロポーズされて、正直迷ってたんだけど」
 衿子は、会心の笑顔を見せて言った。「今日、あなたと会って決めたわ。彼と結婚しようって」
 たぶん、彼との結婚生活は、刺激的ではないと衿子もわかっていた。それを臨むなら、きっと貢の方がいい。けれど、衿子が欲していたのは、安らぎだった。彼となら、一生穏やかな気持ちで過ごせる……。
「とりあえず、おめでとう」
 ようやく、貢が口を開いた。「そんな相手がいるなんて、知らなかったよ」
「ありがと」
 短く、衿子は答えた。「決心できたのもあなたのおかげだから、感謝しなくちゃ」
「あんまりうれしくない感謝のされかただな」
 むくれる貢を尻目に、晴れやかな笑顔で、衿子は言った。
「それより、今日の夜景は、綺麗に見えない?」
「みんな帰省して東京に人がいないから、空気がきれいなだけだよ」
 ぶっきらぼうに、貢は答えた。
「じゃあ、夜景は今が旬なんだ」
「ばーか」
 それっきり、貢は名残惜しそうに東京の明りを眺めていた。

Fin.

【水泳日記】太ももっ

お昼からがっつり。

○1050
・up 100
・Lesson(SwimTraining) 650{
 //up
 Fr 25*3, Choice(Fly) 25*1
 //Drill
 IMO 12.5*2*4
   Fly 前半:水中でサイドキック 後半:Combi
   Ba 前半:片手Swim(上で3秒静止) 後半:Combi
   Br 前半:キックは片足のみで 後半:Combi
   Fr 前半:水中でサイドキック 後半:Combi
 //Main
 Choice(Fly) 25*1 1’00”
 IMO 25*4 1’00”
 Choice(Ba) 25*1 1’00”
 Fr 50*1 1’30”
 Fr 25*6 45″
 Walk 25*1
 Fr 75*1
 }
Down 300

今年最後のスイムトレーニング。今日は地味にキツかったなー。
最初、体が硬くてどうしようかと思ったけど、downのときには、いい感じで泳げたからよしとしよう。

Fly。
「かきはじめるときにひじを残す」が、身についてきた。めっちゃ楽に、腕が回る。
でもこれ、力んじゃう初心者には難しいテクニックだよねぇ。
バタフライに限った話じゃないけど、「ひじが使えるようになったら一人前」ってことかしらん?

Br。
引き続き、キックを試行錯誤。
ひざを広めに開いて、太ももを使って蹴ると、いい感じに。
んー。「力任せ」って感じで、あんまり好きじゃないんだけど……背に腹は代えられぬ、というところかも。

Ba。
キャッチでひじを張った直後、ほんの一瞬だけ、内側に水を押したら、いい感じに。
これが俗にいう「S字プル」なのかねぇ。でも、ほんの一瞬だから「S字」っていうのも、ちょっと違う気がするのだけど。
これを指して「S字にかけ」と言われても、わかんないよねぇ。ホントに、内側に押すのは一瞬なんだから。
水泳に関しては、「誤解を招く表現」が多くて、悩ましい。
もっと「わかりやすい表現」で語れる人が増えてくんないかなー。

柚子湯の季節(2)

「それにしても、アンタは不幸を吸い寄せるオンナよねぇ」
 のんきな顔で、向かいに座った真琴は言った。
「ホント。お祓いにでも行ったほうがいいかしらね」
 言いながら、あたしはため息。喫茶店の中もすっかりクリスマス一色で、そんな華やかな演出が、かえってわたしを落ち込ませた。
 母がわたしの家に来たは、電話のあった翌日だった。
 明け方の四時に帰宅すると、自宅の前で誰かが毛布に包まって眠り込んでいた。ご丁寧にドアに寄りかかって寝ていたから、そのまま無視して部屋に入るわけにもいかず、彼女を無理矢理起こしてみると、
「遅いわねぇ。何時間またせるのよ」
 と、いきなり怒られてしまった。その声で、前の日に電話をかけて来た「わたしの母を名乗る人」であることに気付いた。
 しょうがなく自宅に上げ、わたしがなにか聞くより早く、昔の写真だの保険証だのを見せ、自分が母であることを説明しはじめた。そんなことよりわたしは一刻も早く布団に入りたくて、
「詳しいことはそのうちに時間を取って聞きます。それまではいていいから」
 そう言うとわたしは、さっさと風呂に入ってしまった。風呂から上がると母は、リビングで寝入っていたのだった。
「そのうちに時間を取って」と言ったものの、それからの数日はじっくり話を聞くほどの時間もなかった。わたしはホステスで夜の仕事。昼に起きて、明け方に帰ってくる毎日。一方母は、近所の小学校で給食のおばちゃんをやっているらしく、朝起きて夜寝る普通の生活をしている。これでは、顔を合わせることもできない。
 けれど、何日も居座られても困るし、今日は仕事を休んで、母が帰るのを待って、きちんと話をして、出て行ってもらうつもりなのだ。
「ま、なんとかなるから、がんばってね」
 真琴はそういうと、伝票を手に立ち上がった。「今日のケーキは、おごったげるから」
 年齢でいうと真琴は、わたしより2つ年下のはずだけれども、二人でいるときは、どっちが年上でどっちが年下だかわからない。
 とりあえず今日のところは、いかに母を追い出すかに集中しよう。
 一応、ホンモノの母だとは思う。でも、十五年も前に勝手に出て行った人だ。そのあとのわたしの苦労を考えれば、部屋を貸してあげる義理もないはずだ。
 そもそも、父がいた部屋は、リフォームしたあと真琴に入ってもらうつもりだったのだ。それなのに、勝手に居座られても困る。
 よし、その線で説得しよう――と心を決めたとき、ちょうど自宅についた。
 エレベーターを降りて、部屋の前までくる。鍵を開けると――部屋の中に、男がいた。
 母がいるのならわかるが、コイツは誰だ!?
 ストーカーっぽいヤツに付回された経験はあるけれど、部屋にまで侵入された経験はさすがにない。とっさに傘立てからできるだけ頑丈そうな傘を取ると、
「アンタ誰? 警察呼ぶわよ!」
 わたしは叫んだ。
 リビングでのんびり雑誌を読んでいたその男は、
「アンタがすずちゃん? 淑子から話は聞いてるぜ」
 動揺するでもなく、男は言った。
 ということは……母の知り合い?
 見た目は、わたしと同じ二十四か五くらい。だとすると、母の連れ子?
「ここはわたしの家よ。出て行ってくれる?」
「広い家なんだからさ、堅いこと言うなよ」
 そう言うと男は、また雑誌に目を落とした。どうやら、出て行く気はないらしい。
 それなら、警察に連絡した方がいい。そう思ったわたしは、近くの交番へ行こうと思った。その時、
「ただいまー。あら、すずちゃん帰ってたの。今日は早いのねぇ」
 玄関が開いて、母が帰ってきた。手には、買い物袋を提げている。
「それどころじゃないわよ。あの男、誰よ」
 わたしが母に詰め寄ると、
「あらまだ紹介してなかったわね」
 平然とした顔で、母は言った。「亮ちゃん。私の彼」
 わたしと同じ年くらいのあの男が、五十に手が届こうとしている母の彼氏!?
「ちょっと、ふざけないでよ。あなたがここにいることすら、迷惑だっていうのに、男まで一緒に面倒見る気はありませんからね。出ていって。いますぐ出ていって!」
 わたしが叫ぶと、
「面倒見てもらう気はないの。ただ、ちょっと部屋を貸してもらうだけで。広いんだから、いまさら一人増えても問題ないでしょ? それに一人よりみんなの方が楽しいし」
 母はしれっと言った。
 この面の皮の厚い連中を追い出すには、どうしたらいいんだろうと悩んでいるわたしをよそに、
「さて、ごはんにしましょうね。今日の晩御飯は麻婆豆腐よ」
 と、母は晩御飯の仕度をはじめ、
「おう、早くしてくれよ。朝からなにも食ってねーんだ」
 亮とかいう男は、夫かのように言い放つ。
 ここは、わたしの家なのに……!
 わたしが亮を睨んでやると、亮はにやりと笑った。

夜景の季節(2)

 五年前の東京タワーは、雨だった。にもかかわらず、展望台の中は人、人、人であふれていた。降っている雨が、ひょっとしたら雪に変わってホワイトクリスマスを演出できるかもしれない――そんな浅はかな考えの人々が集まっているようだった。
 並々ならぬ人いきれに、衿子は少々戸惑いを覚えながらも、心の片隅では賑やかさで悲しみが紛れるかもしれないという、淡い期待を抱いていた。もちろん、そのつもりで貢がこの場所を指定したのでないことは、百も承知だ。どちらかと言えば、貢は「浅はかな考えの人々」の部類だろう。いつもなら衿子を落胆させる貢のミーハー趣味が、今日ばかりは幸いするなんて、なんとも皮肉なものである。
 冬だというのに簡易サウナの様相を呈していたエレベーターから吐き出されて約二〇後、
衿子はようやく貢の姿を見付けた。――以前なら、もっと簡単にこの人を捜し出せたはずだな……。そう思った瞬間に、自分がかなり疲れているのを実感した。
 貢に初めて会ったのは、大学に入学して四日目のことだった。仰々しい行事が一段落し、
クラブや同好会が本格的に部員勧誘に精を出し始めた頃、
「ねぇねぇ、ちょっとアナウンサーしてみない?」
 と声をかけてきたのが、貢だった。
 やけに調子のいい先輩だな――という第一印象を持ったわずか一〇分後、衿子は予想外の言葉に遭遇する。
「新入生のくせして、もう一人会員を勧誘してきやがった」
 やけに調子のいい先輩――それが衿子と同じ新入生だったことに呆れるやら驚くやらで、気付いたときには、あろうことかその放送同好会の会員になっていた。
 その半年後。その時もまた、二人は東京タワーに上っていた。
「明りの数だけ人の営みがあるなんて言うけど、それってウソだよね」
 衿子は、本当に何気なく、そう言った。「ほとんどの明りは、企業の明りなんだもん」「だったら…」
 貢は、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。「この中に、俺たちで人の営みの明りを増やしてみない?」
 ――その言葉に肯いて、二人が同棲を始めたことに一番驚いたのは、同級生でもなく同好会の仲間でもなく二人の両親でもなく、当事者である貢と衿子であった。
「案ずるより生むが易し」という格言通りに、二人の生活は順調だった。だが三年経って、
無事就職も内定し、大学の講義も減り、一緒にいる時間が長くなると、どうでもいいささいことが、どうしようもなく気になるようになっていた。
「――雨、だな」
 貢の頬には、少し赤みがさしている。どうやら、どこかのクリスマスパーティーの帰りらしい。
「そうね」
 手摺に肘を付いた衿子の肩から、ポーチが滑り落ちた。衿子の方は、来年から就職する放送局の夕食会に招かれていた。放送局の人達が「これから忘年会に流れるので同席しないか」と誘ったが、それを衿子は丁重に断った。
「ひとつ、賭けをしてみないか」
 外を見たまま、貢は言った。今日はひどく視界が悪い。一年ぶりのクリスマスで華やかであろうはずの東京が、雨の向こうに煙っている。
「なにを?」
「奇跡が起きないかどうか」
 冗談を言ってる場合じゃないでしょ、という言葉が喉まで出かかったが、どうやら貢は本気で言ってるらしい事に気付き、衿子は口をつぐんだ。
「もし、この雨が雪に変わったら結婚しよう。もし、雨のままなら、その時は別れる……どうだ?」
「奇跡でも起きない限り、二人で生活してはいけない、ってことね」
 衿子の言葉を肯定するように、貢は夜景に吸い込まれていく雨を、じっと見つめていた。

 ――その日、東京には一晩中、雨が降り続いた。