台風の季節(2)

「では、これに記入していただけますか?」
 お姉さんはそう言って、カウンターに一枚の紙を置くと、小走りに後ろの部屋に入っていった。
 康介とまゆみの前に置かれたのは、「拾得物メモ」と書かれた紙だった。ということは、これに記入しろ、ということなのだろう。
 それはいいとしても……。
 ふたりは、顔を見合わせた。
 事務手続きが必要なのはわかる。が、紙だけ渡して客(といっても、入園はしてないから、正確には客ではないけれども)を放置するのは――。
 と思った次の瞬間、さっきのお姉さんが、バスタオルを抱えて、戻ってきた。
「これで、体を拭いてください」
 そう言って、康介とまゆみにバスタオルを差し出した。
 バスタオルを受け取りながら、またふたりは顔を見合わせた。
<さすが、おもてなしで有名なテーマパーク!>
 感動のあまり、ふたりは顔を拭くのも、しばらく忘れていた。
 入園ゲートで、あやしい袋に入ったぬいぐるみを見つけたふたりは、その場にぬいぐるみを放置――することも考えたのだが、それもちょっと気が引けるので「忘れ物として届けよう」ということになったのだ。
 とはいっても、休園しているのでチケットを販売するブースにも係員はおらず……しょうがないので、ぬいぐるみの入った袋を抱えたまま、周囲を歩き回り、ぬいぐるみを見つけたのとは別のゲートの端にインフォメーションセンターをみつけたというわけである。
 ――戻ってきたお姉さんは、ぬいぐるみの入ってる袋をひと通り確認したあと、
「中身を確認したいのですけど……どうしましょう?」
 と言って、袋の下の部分をふたりに見せた。――ビニール袋の口が、がっちりとテープで固定されている。
「開けちゃえば?」
 あっさり言って、テープに手を伸ばしたまゆみに、
「そういうわけにもいかないだろ」
 と言いながら、康介はまゆみを止めた。
 テープでしっかり固定されているから、中身を確認するためには、袋をやぶかなきゃいけない。それはさすがにできないだろうと、康介は思ったのである。
 かといって、「正体不明の物体」だけでは、持ち主を探すのもままならない。
 ――すると、お姉さんが袋の上から、感触を確かめると、
「これは、『きーたん』ですね」
「「えっ」」
 康介とまゆみが、同時に声を上げた。
 外から触っただけでわかるとは、ふたりとも思っていなかったんである。
 二人の反応をどう解釈したのか、お姉さんはそのキャラクターの説明をはじめた。
「レイクサイドフォレストっていうエリアにいるキャラクターで、たぬきの三兄弟なんですよ。長男がたーたん、次男がぬーたん、三男がこのきーたんで、耳とかしっぽの形が違うんで、触ればわかるんですよ。――しかもこれ、二年前の十周年記念バージョンですね」
「「はぁ!?」」
 また、康介とまゆみの声が揃った。
「外から触っただけで、よくわかりますね……」
 まゆみが聞くと、
「このサイズは、特別なイベントにしか発売しないサイズですし、手裏剣持ってるので、二年前のやつだと」
 ――お姉さんによると、イベントごとにぬいぐるみのモチーフが変わり、二周年のイベント時にたぬきの三兄弟は、忍者がモチーフだったからわかった……ということらしい。
「さすがだねぇ……」
 康介が感心するようにつぶやたとき、
「ところで」
 お姉さんが言った。「このぬいぐるみ、どこで拾ったっておっしゃいましたっけ?」
「ゲートのところにくくりつけられてあって……」
 康介が答えると、
「それだと園内ではないので、ここではお預かりできないですね」
 お姉さんは、そう言った。
 確かに、ゲートの内側ではないから、「園内」ではない。
「そういうルールになってますので……警察の方に届けていただけますか?」
 笑顔を崩さず、お姉さんはそう言って、二人にぬいぐるみの入った袋を差し出した。

台風の季節(1)

「マジか……」
 康介がつぶやくと、
「失敗したね……」
 隣のまゆみも、それを見て言った。二人の視線の先には、一枚の貼り紙があった。丁寧にポリ袋でくるまれたコピー用紙が、柵にくくりつけられている。で、そこには……

 本日休園します

 ――と、書かれていた。
 ここはとあるテーマパーク。康介とまゆみは、ようやく休みが重なったので、テーマパークへと遊びにきたのだが……。
 呆然とする二人を、激しい雨と風が打ちつける。すでに靴どころかスボンもびしょびしょだ。
 もちろん二人も、今日台風が首都圏を直撃することは知っていた。しかも、「九六〇ヘクトパスカルの大型台風」であることも。けれども、
「台風なら、空いててラッキー」
 くらいにしか思っていなかった。いくつかアトラクションの休止はあったとしても、屋内のアトラクションも多いし、休演するハズがないと思い込んでいたのだ。言われてみれば、駅前も異常なくらい人影が少なかったのだけど、それを見ても、
「この様子なら、いつも以上に遊べる」
 と話していたくらいだった。
 テーマパークのホームページくらい、出かける前にチェックしてくればこんなことにはならなかったのに――と思っても、あとの祭り。あるのは「休園で入れない」という事実と、まるまる空いてしまった時間だけである。
「――どうする?」
 康介は、まゆみに聞いた。
「どうするって言われても……」
 まゆみは、視線を貼り紙から康介に向けようとして――なにかが目に入った。
 そのテーマパークには、いくつかの入園ゲートが並んでいる。まゆみと康介がいるのは、駅から続くペデストリアンデッキに一番近いゲートだ。そこで二人は貼り紙を発見したのだが、いくつか離れたゲートのところに、なにかがある。
「康介、あそこになにかある」
「え?」
 まゆみの指差した先には、白い袋のようになものがあった。が、二人の位置からはハッキリと見えないものの、そこにあるべきものではないことは理解できた。
「あれ、なんだろう?」
 言うより早いか、まゆみは駆け出した。
「え、ちょっと!」
 あわてて、傘を飛ばされないようにしながら、康介はまゆみのあとを追いかけた。
 ――さっきいたところから五つ離れた入園ゲートにあったのは、白い大きなビニール袋だった。両手で抱えないといけないくらいの大きさのビニール袋が、入園ゲートにくくりつけてある。何重にも袋を重ねてあって、中身はハッキリとは見えない。
「なにかしらね、これ」
 そう言いながら、まゆみは袋に手を伸ばした。――数回ソレをつついたあと、まゆみは康介に顔を向けた。「ぬいぐるみが入ってる!」
「ぬいぐるみ!?」
 そう言って康介も袋に手を伸ばしてみる。――確かに、ビニール袋の向こうに、ふわふわとしたぬいぐるみの感触がある。
 テーマパークだから、ぬいぐるみがあるのはおかしくない。
 にしても。
 こんなところにビニール袋に入ったぬいぐるみを置くなんて演出は考えられない。今日は休園なのだから、「中で買ったものを落とした」って可能性もない。そもそも、何重にもビニール袋でくるんでいるっていうことは、明らかに台風の雨対策なんだろう。それはいいとしても、なんでぬいぐるみをゲートにくくりつける必要がある?
 考えれば考えるほど、謎は深まるばかりで――まゆみと康介は、顔を見合わせた。

北風の季節(5)

5 凛・2004

 聞いてみると、話は簡単だった。律子とノリちゃん――規夫が最初に付き合っていた。付き合っていたわけだから、二人で出かけることの方が多かったが、洋子も加えた三人で会うこともしばしばだったという。仲の良い姉妹ならば、それも納得できる話だ。ところが、しばらくすると、規夫は洋子に乗り換えてしまった。
 律子と典夫が付き合っていたときも、三人で会うこともあったから、洋子はそれまでと同じように、律子を誘って三人で出かけようと誘うことがあったのだと言う。
 洋子にとっては自然なことでも、律子にとってそれは耐え難いことだった。そんなこともあって、意識的に二人を避けていたのところに、ボクが現れた。洋子に心を奪われていたボクの様子を見て、洋子にボクをあてがえば、規夫も自分に戻ってくるかも……と律子は考えたらしい。
 その企みが、悪あがきでしかないことは、律子もうすうす感づいていたようだったけど、それでもやらずにはおれなかったのが、女心なんだと思う。
 それからしばらくして、なんとなく、ボクと律子は付き合うことになった。その後、結婚もして子供も生まれて、それなりに暮らしている。気がつけば、あれから十年以上経ってしまったことになる。洋子は、あれからいろんな男と波乱万丈な人生を送っているようで、ちょっとイロイロあったけど、あれがボクと律子の『運命的な出会い』だったんだと、思うことにしている。
 ――小一時間ほど走って、自宅まで戻ってくると、すっかり顔が冷たくなっていた。それなのに凛は、
「ただいまー」
 と疲れた様子も見せずに、バタバタと玄関を入っていった。
「思ったより早かったのね」
 浴室から、律子が顔を出した。「お風呂、沸かしておいたわよ」
 出かけるときには、
「この寒いのに、もの好きねぇ」
 とか、
「風邪引いて、仕事休むことになっても知らないわよ」
 とか、好き勝手なことを言ってたくせに。
「あらぁ、すっかり冷えちゃったわね」
 律子は、凛の頬に手を当てて言った。「寒かったでしょう」
「うん、寒かった!」
 凛は元気よく言った。「でも楽しかった!」
「とりあえず、お風呂入ってあったまってきなさい」
「はーい。それでね、あたし決めた」
「なにを?」
「あたしも大人になったら、オープンカーに乗っている人と結婚する!」
 凛の言葉を聞いて、ボクはぽとりと手に持っていたグローブを床に落とした。――この間まで、「パパと結婚する~」って言ってなかったか?
 それを目ざとく見ていた律子が、
「……だって。フラれちゃったわねぇ~」
 くすくすと笑いながら、凛と一緒に浴室へ消えていった。

Fin.

北風の季節(4)

4 洋子・1992

 クリスマスを二週間後に控えた表参道は、想像していた以上にキラキラしていた。平日の昼間で、薄曇りでかなり冷え込んできているというのに、狭くないはずの歩道に人があふれている。これが夜なら、ましてや一週間後、二週間後ならどんな状態になってしまうんだろうと思うと、ボクはちょっとげんなりした。
 邪魔にならなそうなところにカプチーノを止めると、ボクは素早くクルマから降りた。洋子がドアの開け方に戸惑っているようなので、助手席側に回り込んで、ドアを開けてあげる。
「うわあ、寒ぅい」
 洋子はそう言いながら、手のひらに息を吹きかけた。「屋根開けなくて、よかったですねー」
「うん、そうだね」
 ボクは肯いた。
『買い物につきあってくれない?』
 そう言ったのは、律子だった。たまたまバイトの休みと重なっていたので「いいよ」と返事をしたのだが、待ち合わせ場所にいたのは、洋子の方だった。話を聞いてみると、洋子も律子と買い物に出かける約束をしていたらしい。
 三人で出かけるつもりだったのかもしれないが、幸か不幸かボクのクルマは二人乗りで、律子を待っていても、乗るスペースはない。だからボクは、
「とりあえず、買い物だけ済ませてきちゃおうか?」
 と提案したのだった。
 走りながら、これが律子の悪巧みであると、ボクは確信していた。そりゃあ、洋子とのドライブがうれしくないと言ったらウソになるけど、こういう形でというのは、ちょっと複雑な気分だ。
 それからボクと洋子は、いくつかのお店を回った。と言っても、洋子はおおよその目星をつけていたようで、あとは買うかどうか決断するだけのようだった。
「なに迷ってるの?」
 ボクが聞くと、洋子はイヤリングを手に取ったまま、
「あたし、迷いだすと止まらないんですよー」
 いつになく真剣な声で言った。
 手にとっているのは、少し大柄なイヤリングだった。
「似合うと思うけどな、それ」
 ボクは言った。そのイヤリングは、大柄だったけど派手感じはなく、洋子には似合いそうなものだった。
「そうなのかなぁ。でも、俊夫さんが言うなら……」
 それでも決めかねている洋子に、ボクは言った。
「お金のことなら……少し手伝おうか?」
「いや、お金とかは大丈夫なんですけど……それより、申し訳ないです」
 『申し訳ない』の意味がわからなくて、ボクは聞き返した。
「え、申し訳ないってなにが?」
「だって、りっちゃんと俊夫さん、付き合ってるんでしょ?」
 は……はぁ!?
 なんでここに律子の話が出てくるのかわからないし、それに、ボクと律子が付き合ってるって、なにをどう勘違いすれば、そうなるんだ?
 呆然としているボクをどう勘違いしたのか、洋子は、
「それに、お金はちゃんともってきてるし、あたしとノリちゃんからのお誕生日プレゼントだから、俊夫さんに出してもらうわけにはいかないし……だから、俊夫さんは、ちゃんとりっちゃんにプレゼント買ってあげてくださいね」
 それだけ言うと、手に持っていたイヤリングを包んでもらった。
 帰りのクルマの中で話を聞いたところによると、こういうことだった。
 律子の誕生日プレゼントを買うものをリサーチするため、「ノリちゃん」と一緒に出かけようと誘っていたのに、律子がことごとく断っていたのだという。はじめて洋子に会った日、律子と洋子がもめていたのは、そのことだったらしい。それで今日、うまく誘いだすことができたと思ったら、また律子にすっぽかされてしまった。でもとりあえず、ボクの意見を聞けば、間違いないと思って(なんせ、洋子の中では、ボクと律子が付き合っていることになっているから)、今日買ってしまうことにしたのだという。
 ボクと律子が付き合っているという間違いに関しては、何度も強く否定した。でも、そのたびに洋子は、
「なにいまさら照れてるんですかー。ちゃんとわかってるんですよー」
 とか、
「学校で会うと、いつもりっちゃんと俊夫さんが一緒にいるんだから、モロバレですよー」
 と言って、信じてくれない。確かに、律子とボクは、一緒にいる時間は増えた、と思う。でもそれは、まったく別の理由だとは思っていないようだった。
 そうして誤解が解けぬまま、洋子の家の最寄り駅まできてしまった。
 カプチーノを駅前のロータリーに止めると、それには律子が待っていた。横には、いかにも体育会系なオトコが立っている。
 なんだ、律子にはちゃんと彼氏が――。
 そう言おうとしたら、洋子はもうドアを開けて、二人に駆け寄っていた。
「あれぇ、ノリちゃんとりっちゃん、二人そろってなにしてるの?」
 洋子は、二人に……主にオトコの方を向いて、そう言った。
 するとなにか?
 「ノリちゃん」ってのは、あのオトコのこと!?
 軽いパニック状態のまま、軽く挨拶を交わすと、洋子は買ってきた包みを律子に渡して、
「はい、あたしとノリちゃんからのお誕生日プレゼント。結局、俊夫さんに選んでもらっちゃった」
 それだけ言って、「ノリちゃん」とどこかへ出かけてしまい……駅前には、ボクと律子だけが取り残されてしまった。
「あの……事情、説明してもらえるかな」
 律子に向かってボクが言うと、
「いいけど……せっかくだから、走りながら話さない?」
 そう言って、律子はカプチーノの助手席に乗り込んだ。「アンタの買ったの、オープンカーじゃなかったっけ?」
 ……説明するのもちょっと面倒なので、とりあえず三分割ルーフのうち、左右の二枚を外して、常備しているバスタオルにくるんでトランクに入れた。専用のルーフ収容袋もあるんだけど、面倒なんで手早く済ますときは、バスタオルを使っているんだ。そうしてTバールーフ状態にしてから、ボクはカプチーノを発進させた。
 目ざとくパワーウィンドウのスイッチを見つけた律子は、なにも言わずに窓を全開にした。ごぉごぉと音を立てて、北風が室内に充満する。カプチーノは、フルオープン状態にするより、この状態の方が、風の巻き込みがキツい。あっというまに、狭いカプチーノは、冷蔵庫状態になってしまう。
 暖房をフルパワーにしつつ、ボクは律子がしゃべりはじめるのを待った。

北風の季節(3)

3 律子・1992

「あんたも結構しつこいわねぇ」
 律子はあきれたように言いながら、ボクの目の前に座った。
「しつこいって、なにが?」
 ボクは、読みかけの雑誌から顔をあげた。
「だからこれよ」
 そう言って、律子はボクの目の前にある雑誌をつつく。それは、カプチーノの紹介雑誌だった。新車が出ると同時に発売される、速報カタログのひとつだ。ボクはここ一ヶ月、暇があるとこれを繰り返し読んでいる。次の授業が休講になってしまったので、ボクはいつものように学食で、お茶しながらカプチーノの速報雑誌を読みふけっていたのだ。
「ま、読むだけならタダだしね」
 妙に納得したように言った律子の目の前に、ボクは一本のキーを差し出した。それを手に取ると、律子は「えっ」と小さく叫んだ。
「キーがあるってことは、買っちゃったのぉ!?」
 大きく息をしたあと、律子は言った。「アンタ、ばか?」
 それでもボクは、ニヤニヤと笑っていた。
 衝撃の出会いから一ヵ月後、ボクはカプチーノを手に入れてしまったのだ。
 カプチーノに出会ってからすぐ、ディーラーに行ったら、あっさり「半年待ちです」と言われてしまった。もともと生産台数が少ないのだから、それはしょうがない。その間バイトして、頭金でも貯めておけという天からの声だと思い、予約だけいれた。
 それからボクは、バイトを変えた。夕方からのバイトと夜のバイトと、ふたつ掛け持ちだ。もちろん、毎日両方の仕事をするわけではないにしろ、体力に自信のないボクには堪えた。体はきつかったけど、バイト先の仲間もいい人だし、なにより「カプチーノを買う!」と思えば、それほどつらいとも思わなかった。カプチーノで洋子とドライブしたら楽しいだろうな、という気持ちがなかったといえば、ウソになる。というより、いつのまにか、そっちの方が「本命」になっていた気がする。
 そして三日前、突然ディーラーから電話があった。特別な事情があって、カプチーノの中古車が手元にあるんだけど、それを買わないかというのだ。しかも、まだ一〇キロも走っていない新車同様の状態なのに、普通の中古車価格より安くしてくれるという。ボクは、その話に飛びついた。
 ディーラーで話を聞いたら、納車直前に事故を起こしてしまって、本来納車する人には別の新車をあてがうことになったのだという。予約待ちの人に、その「事故車」を紹介したけど、みんなに断られて、ボクの順番になったらしい。
 事故車であろうと、ちゃんと走ればボクには問題ないし、それにディーラーの人もそういうクルマを渡すのは気が引けるようで、いろいろとサービスしてくれるという。なにより、カプチーノが安く手に入るのはありがたいことだった。
「目の前にニンジンぶらさげられたら、そりゃ飛びつくでしょ」
 ボクが言うと、
「イヤね、オトコって。犬だって『待て』くらい覚えるわよ」
 それだけ言って、律子は黙ってしまった。
「ボクは犬以下ですか……」
 小さい声で反論して、ボクはコーヒーをすすった。カップ1/3ほどになっていたコーヒーは、隙間風のせいでほとんど冷たくなっていた。
 律子の沈黙が妙に怖くて、そろそろ逃げ出そうかと思ったとき、洋子があらわれた。
「ちょっとお邪魔しますねぇ~」
 元気な声でそう言いながら、洋子は律子の隣に座った。「俊夫さんは、いつもの本ですか?」
「コイツね、買っちゃったのよ」
 律子は、さっきボクが渡したキーを、洋子に見せた。
「ええー、すごーい」
 まるで自分のことのようにうれしそうな声で、洋子は言った。「この間りっちゃんがオープンカーに乗ってたのを見て、あたしも乗りたいと思ってたところなんですよー。いいなぁ」
 その場にボクがいたことを覚えてもらっていなかったことに、ちょっとショックを受けつつも、
「今度乗せてあげよっか?」
 ボクがそう言うと、
「いいんですかぁ? わーい」
 洋子は、ぱちぱちと手を叩いた。
 こんなに喜んでくれるなんて、いい子だなぁ。「アンタ、ばか?」が第一声の律子とは大違いだ。これで普段は仲のいい姉妹なんだから、よくわからない。
 ――じゃあ、いつ頃がいい?
 そう聞こうと思った途端、洋子がポケットベルを取り出した。
「ごめんなさい、ちょっと電話してきますね」
 そう言って、洋子は学食の入口近くにある公衆電話に走っていった。
 それにしても元気な子だ。洋子の元気は、こっちまで元気にしてくれるのがいい。――なんてことを考えていたら、
「ふーん、そういうことね」
 冷めた目でボクを見ながら、律子は言った。「あたしがなんとかしてあげよっか?」
「なんとか……って、なに、が?」
 冷静に言ったつもりだけど……ドキドキしているのが、自分でもわかる。
「決まってるじゃない。洋子のことよ」