Avenue.3-3

 杏菜は、ドアノブに手をかけて――手を止めた。
 いままで聞いたことない曲が、中から聞こえて来たのだ。部屋を間違えたかと思って、もう一度ドアを見てみると、そこにはやっぱり、コピー用紙にマジックで「Iプロジェクト」と書かれた張り紙がある。
 念のためドアノブをゆっくりと回すと、杏菜は細く開いたドアの隙間から、中をのぞいた。このレッスン場兼更衣室兼会議室兼スタジオは、片側の壁面が鏡張りになっている。最初の顔合わせのときに、硝が「どうしても」と言って、リクエストしたものだ。といっても、予算の関係で本物の鏡じゃなく、ステンレスのシートなので、多少のゆがみはあるのだけれども、それでも動きを確認するのには、十分だった。
 その鏡の前で、アップテンポな曲に合わせて硝が一心不乱に踊っていた。いままで自分たちがやっていたダンスとの違いに、杏菜は目を丸くした。
 それまでやっていたのは、ミドルテンポの曲で、動きもそれほど多くなかった。「学校の授業でやった創作ダンスに毛が生えたようなものだな」と杏菜は思っていたほどだ。「ダンスなんて無理!」と思ってた杏菜も、「これならなんとかなりそうだ」と納得したのだ。
 ところが、いま硝がやっているダンスは、まったくの別物といってよかった。左右に大きくステップを踏み、腕を高く振り上げたかと思えば、縦横無尽に細かく動く。そして、どの動きも速い。いままで「ペッパー&ミント」でやっていたのがお遊戯なら、硝のダンスは完全にスポーツの域に入っていた。
 しばし硝のダンスに見とれていた杏菜だが、
<ひょっとして、次はこれをやるの!?>
 と思い当たり、それは困ったことになったな……と思ったところで、曲が終わった。
 最後の「決めのポーズ」のまま、硝はピタッと動きを止めた。が、相当激しく動いたのか、肩が小さく上下している。
 ダンス経験者の硝でさえこうなんだから、未経験者の杏菜や咲紀なら、終わったと同時に倒れこんでしまうに違いない。
 それは絶対に阻止しなければ――と決意して、杏菜は硝に声をかけた。
「おはよー。すごいダンスだね」
 声をかけられて、硝が振り向いた。
「おはよ! いつからいたの?」
「ついさっき。すごいダンスに、見とれてた」
「声かけてくれればいいのにー」
 そう言いながら、硝はタオルで汗を拭いたあと、スポーツドリンクの入ったペットボトルに手を伸ばした。
「ところで…」
 手近な椅子に座りながら、杏菜は聞いた。「いまのが、次にやる曲?」
「まさか!」
 硝は即答した。が、本当のことを言っていいのか、硝は迷った。
 いまやっていたのは、オーディションの課題曲なのだ。
 今週末にあるオーディションというのが、「近々メジャーデビューするのではないか」とウワサされているグループの、二期生募集だった。オーディションのダンス審査で、そのグループの持ち歌が使われるのだ。つまり、この曲をある程度マスターしていることが、合格の条件なのである。
 硝はときどき、この部屋でダンスの自主トレをしていた。だから、それ自体には問題はないのだけど、「オーディションのために練習していた」と言っていいのか、迷ったのだ。
 ペッパー&ミントは期間限定のユニットで、今月末までということになっている。だから、その先の活動の準備をすることに問題はないハズだし……そもそも、もともとアイドルに興味のない杏菜や咲紀にしてみれば「そうなんだ」で終わりだろう。
 現在進行形で活動している仲間に、それを言うのは、ちょっと気が引けたのだ。
「自主トレに決まってるじゃないですかー」
 硝が答えると、
「よかった」
 杏菜は胸をなでおろした。「そんな激しいダンス、やれって言われてもできないわよ」
「そんなことより」
 今度は、硝が杏菜に聞いた。「なんでスーツなんか着てるの?」
「就職活動」
「どうだったの?」
「――惨敗」
 あっさり言って、杏菜はパイプ椅子に腰を下ろした。
 午前中から、杏菜は会社訪問をしていたのだが、門前払いをされたり、対応してもらってもおざなりだったり……なかなかシビアな現実を突きつけられてきたところなのである。
「そういえば……」
 硝が言いかけたところで、レッスン場兼更衣室兼会議室兼スタジオのドアが、バンッと大きい音を立てて開いた。
 なにごとかと二人が見てみると、「いかにも怒ってます」というオーラをまとわせて、茶月が入ってくるところだった。
「あ、おはようございます」
 と律儀に挨拶した杏菜に対して、硝は、
「なにかあったんですか?」
 とストレートに聞いた。
 いきなりそんなこと聞いて大丈夫か、と心配した杏菜をよそに、
「それがさぁ」
 と、茶月はノリノリで話しはじめた。
「かたひらアベニュー」の運営会議に呼ばれたので出席したところ、買い物客が増えていて、それに対しては感謝されたが、一方で「客が増えたのに、売り上げは増えてない」とチクリと言われ、「なにか対策を考えてくれ」と指示された――ということらしい。
「売り方がヘタなのを、こっちのせいにされてもねぇ」
 と、茶月は一気にまくし立てた。「硝ちゃん、なにかアイディアない?」
「いきなり言われても……」
 硝は言ったが、内心は、
<お金の話をされても困る!>
 と叫びたいところだった。
 今回のプロジェクトの中で、唯一アイドルに関して知識があるのが、硝だった。それゆえ、披露する曲の選定やら振り付けやら衣装やら、なにかと任される仕事が多いというのに、お金の話までされても、硝にはわからない話だし……それに、いまは正直、オーディションに集中したい気持ちもある。
「そりゃそうよね」
 茶月がつぶやいたとき、咲紀が入ってきた。
「おはよーございます」
 それを見て、
「じゃあ、今日の準備、はじめよっか」
 茶月が立ち上がった。今日のユーストリーム放送は、咲紀と杏菜の担当なのだ。
 となると、硝がここで自主トレしているわけにはいかなくなる。
「ふたりとも、がんばってね!」
 そそくさと荷物を片付けると、硝はそう言って、レッスン場兼更衣室兼会議室兼スタジオを出て行った。

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