柚子湯の季節(4)

 自宅に帰ったときから、イヤな感じはしていた。
 深夜四時。
 いつものように仕事から帰ってくると、部屋の電気は消えていた。母は寝ているらしい。最近のクセで、リビングからキッチンをひと通り見て回る。亮はここに入れないように言ってあったし、母も「大丈夫。絶対入れない」と言ってはいたが、たびたび入っている形跡は残っていた。ゴミ箱の中を見れば、吸殻だとか昼食のカップラーメンの容器だのが捨ててあるのだから、誰がどう見ても、何度か亮をウチに上げているのは明らかだった。
 今日は、そうした痕跡がひとつもなかった。――たぶん、亮は二度とここの敷居をまたぐことはないだろう。わたしはそう、確信していた。
 自室に戻って、ウォークインクローゼットにスーツをかけて、下着姿のまま浴室に向かって……ようやく、違和感の原因がはっきりした。
 浴室のドアを開けた途端、漂ってくるチープな匂い。
 原因は、湯船だった。湯船の中身が、黄色くなっていた。
 今日はお気に入りの、ローズ・バスオイルにしようと決めていたのに!
 いまからお湯を入れ替えようかとも思ったが、そんな元気もなく、そのまま入ることにした。いかにも合成着色料な色と、不自然に濃い柚子の香り……。
 母の仕業に、違いなかった。それにしても、いままで入浴剤なんて使っていなかったのに。
「なんで今日に限って……」
 と言いかけて、ふと気付く。
 そうか、今日は冬至か。冬至には柚子湯とは言うけれど、それが市販の入浴剤じゃあ、興ざめた。
 ヘンな色気を出して「母親らしいこと」をしようと思ったのだろうけど、逆効果だっていうことになんで気付いてくれないんだろう。なんかこのまま居座られたらどうしよう……。
 そんなことを考えていたら、脱衣所のあたりで物音がした。
「すずちゃん、ちょっといい?」
 母だった。
「……なに?」
 バスタブにつかったまま、わたしは聞いた。
「今日、新しいアパートの手続きしてきたから……明日からそっちに移ります。突然押しかけて、いろいろ迷惑かけちゃったけど、ごめんね」
 そこまで一気に言うと、母はしばらく黙っていた。
 わたしがなにか言うのを待っているのかと思った。といっても、一方的に押しかけられたのはわたしの方で、「こちらこそお世話になりました」とか「今日でお別れなんて、寂しいです」とか、当たり障りのないことを言うつもりはない。しかし、「やっと出て行く気になったのね」とか「こどもに迷惑かけっぱなしなんて、母親失格ね」とか、皮肉を言う気分でもない。
 さて、どうしたもんかとしばし思案していると、
「それで、あの……」
 おずおずと、母が話し出した。「ここ二日、亮ちゃんと連絡取れないんだけど……すずちゃん、なにか知らない?」
 ……アンタが聞きたかったのは、そっちの方か!
 なんだか、怒りを通り越して、あきれてしまった。
 結局この人は「オトコ」を中心に回っているんだ。それをはっきりの認識した瞬間だった。
 しかし、「アイツはわたしに乗り換えようとして、フラれんたで消えた」と本当のことほ言う気にもなれず、
「たぶん、戻ってこないと思うけど」
 とだけ、わたしは言った。それ以上なにか聞かれたらどうしようかとも思ったが、
「そう、わかった」
 とだけ、母は言った。半ば覚悟していたかのようだった。
「ねぇ」
 わたしは言った。「いつもこんな感じなの?」
「――うん」
 たっぷり間をとったあと、母が答えた。「今度こそはと、いつも思うんだけどね。どうしても、うまくいかないのよ」
 素直に言いたかった。
 あなたは騙されてるんだと。
 ののしってやりたかった。
 いい年して、少しは学習しろと。
 でも、言えなかった。
 それがこの人の生き方だと思えたから。
 誰かに尽くすこと……そのことが、彼女にとっての「自分の存在証明」なのだから。
 最後まで父の面倒をみたわたしだから、その気持ちはよくわかる。
 ずいぶん前から、「そんな父親は施設に入れてしまえ」と周囲の人に言われ続けていた。そうする権利があると、自分自身もわかっていた。だのに、最後まで父の面倒を見てしまった。どうしてそんなことをしたのか、自分でもわかっていなかったけど、こうして母と会って、ようやく納得できた気がする。そうすることで、自分が自分であることを、確認していたのだ。
 そのときはじめて、理解した。まぎれもなく、わたしはこの人の娘なのだ、と。

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