夜景の季節(2)

 五年前の東京タワーは、雨だった。にもかかわらず、展望台の中は人、人、人であふれていた。降っている雨が、ひょっとしたら雪に変わってホワイトクリスマスを演出できるかもしれない――そんな浅はかな考えの人々が集まっているようだった。
 並々ならぬ人いきれに、衿子は少々戸惑いを覚えながらも、心の片隅では賑やかさで悲しみが紛れるかもしれないという、淡い期待を抱いていた。もちろん、そのつもりで貢がこの場所を指定したのでないことは、百も承知だ。どちらかと言えば、貢は「浅はかな考えの人々」の部類だろう。いつもなら衿子を落胆させる貢のミーハー趣味が、今日ばかりは幸いするなんて、なんとも皮肉なものである。
 冬だというのに簡易サウナの様相を呈していたエレベーターから吐き出されて約二〇後、
衿子はようやく貢の姿を見付けた。――以前なら、もっと簡単にこの人を捜し出せたはずだな……。そう思った瞬間に、自分がかなり疲れているのを実感した。
 貢に初めて会ったのは、大学に入学して四日目のことだった。仰々しい行事が一段落し、
クラブや同好会が本格的に部員勧誘に精を出し始めた頃、
「ねぇねぇ、ちょっとアナウンサーしてみない?」
 と声をかけてきたのが、貢だった。
 やけに調子のいい先輩だな――という第一印象を持ったわずか一〇分後、衿子は予想外の言葉に遭遇する。
「新入生のくせして、もう一人会員を勧誘してきやがった」
 やけに調子のいい先輩――それが衿子と同じ新入生だったことに呆れるやら驚くやらで、気付いたときには、あろうことかその放送同好会の会員になっていた。
 その半年後。その時もまた、二人は東京タワーに上っていた。
「明りの数だけ人の営みがあるなんて言うけど、それってウソだよね」
 衿子は、本当に何気なく、そう言った。「ほとんどの明りは、企業の明りなんだもん」「だったら…」
 貢は、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。「この中に、俺たちで人の営みの明りを増やしてみない?」
 ――その言葉に肯いて、二人が同棲を始めたことに一番驚いたのは、同級生でもなく同好会の仲間でもなく二人の両親でもなく、当事者である貢と衿子であった。
「案ずるより生むが易し」という格言通りに、二人の生活は順調だった。だが三年経って、
無事就職も内定し、大学の講義も減り、一緒にいる時間が長くなると、どうでもいいささいことが、どうしようもなく気になるようになっていた。
「――雨、だな」
 貢の頬には、少し赤みがさしている。どうやら、どこかのクリスマスパーティーの帰りらしい。
「そうね」
 手摺に肘を付いた衿子の肩から、ポーチが滑り落ちた。衿子の方は、来年から就職する放送局の夕食会に招かれていた。放送局の人達が「これから忘年会に流れるので同席しないか」と誘ったが、それを衿子は丁重に断った。
「ひとつ、賭けをしてみないか」
 外を見たまま、貢は言った。今日はひどく視界が悪い。一年ぶりのクリスマスで華やかであろうはずの東京が、雨の向こうに煙っている。
「なにを?」
「奇跡が起きないかどうか」
 冗談を言ってる場合じゃないでしょ、という言葉が喉まで出かかったが、どうやら貢は本気で言ってるらしい事に気付き、衿子は口をつぐんだ。
「もし、この雨が雪に変わったら結婚しよう。もし、雨のままなら、その時は別れる……どうだ?」
「奇跡でも起きない限り、二人で生活してはいけない、ってことね」
 衿子の言葉を肯定するように、貢は夜景に吸い込まれていく雨を、じっと見つめていた。

 ――その日、東京には一晩中、雨が降り続いた。

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