柚子湯の季節(1)

 ピピピピピ。ピピピピピ。
 甲高い着信音に気付いたのは、しばらくたってからだった。――普通の着信音ってことは、アドレス帳に登録していない人からの電話か。出なきゃいけないと思っても、体が動かない。そもそもわたしは、目覚めのいい方じゃない。
 そうこうするうちに、着信音が止まった。のそのそと布団から手を出して、目覚まし時計を手に取る。午前八時。――午前八時!?
 ようやくベッドに入ったのが今朝の五時だから、まだ三時間しか寝てないことになる。
 誰だこんな『早朝』に電話をかけてきたヤローは。
 携帯電話を手に取ろうとして、テーブルの上に目をやって、はっとする。テーブルの上には、いくつものビールの空き缶と、食べかけのお寿司。そうしたあれやこれやの中に、携帯電話が埋もれていた。
 昨日が、父の葬式だった。末期のガンと診断されて、入院して一ヶ月もしないうちに逝ってしまった。とはいっても、この十年アルコール中毒で、苦労ばっかりさせられていただけに、ほっとしたという気持ちの方が強い。
 葬儀の後、参列者にふるまったお寿司の残りをつまみながら、これからの事務手続きをチェックしていた。正直、ろくでもない父親だったけれども、あれやこれや手続きしないといけないということは、それだけ生きていた証があるわけで……なんて思っていたのは最初のうち。あまりに一人で片付けなきゃいけないことが多くて、うんざりしてしまった。
 あれこれ手続きしなきゃいけないということは、夜型のわたしが昼間にやらなきゃいけない仕事が増えるということだ。これ、嫌がらせでしょ、絶対。
 テーブルの上のゴミをさっと片付けて、わたしは携帯を探し出し、画面を確認した。留守番サービスに伝言は入ってないようだ。とすると、間違い電話かイタズラか。なんにせよ、貴重な睡眠時間を奪われたことが腹立たしい。
 今日から仕事に戻るつもりだから、もう一眠りしたほうがいい気もするけど、すっかり目が覚めてしまった気もするし、難しいなぁ……と考えていたころで、また電話が鳴った。素早く電話番号を確認する。さっきと同じ番号だ。わたしはキーを押して、電話に出た。
「もしも……」
『あー、ようやく出たわ。もしもし私。っていってもわかんないかなぁ。私よ』
 わたしがなにか言うより早く、相手がまくし立てた。そこそこ年のいった、女性の声だった。とはいえ、『私』と言われても、さっぱり声に聞き覚えがない。
「あの、どうも、おはようございます……」
 念のため、お仕事モードの声で、様子を探る。男性の声を聞き分けるのは得意中の得意だが、女性の声は自信がない。
『だから、あなたの母親の淑子よ』
「は……はぁ!?」
 その一言で、わたしは完全に目が覚めた。
 わたしの母親は、かれこれ一五年前に家を出ていった。外に若い男を作って、家出してしまったのだ。それ以来、音沙汰なしである。わたしが高校に入って、家計を助けるためにアルバイトをはじめたら、今度は父親が働かなくなって、死ぬほど苦労した時期にはまったく連絡もよこさず、父親の葬儀の翌日に電話をかけてくるなんて!
『そういや、昨日が幸さんのお葬式だったんだってね。連絡があれば、最後くらい顔を見にいけたんだけどねぇ。最後まですずには苦労かけただろうねぇ』
 しみじみ、電話の向こうの母は言った。
「なにぶん急なことだったもので、ご連絡もできずに失礼しました」
 そう言ったものの、わたしは連絡をするつもりはなかったし、そもそも連絡先すら知らない。それ以前に、なんで母は、わたしの電話番号を知っているんだろう?
『ところでさぁ』
 電話の向こうの母は、妙な猫撫でで言った。『幸さん、あなたと一緒に住んでたんだって? ということは部屋がひとつ空いたってことよね。私と一緒に暮らさない?』
「一緒に暮らすって……ここで!?」
 唐突な展開についていけず、なんて言って断ろうかと思っているウチに、
『住所は聞いてるから、今夜にでもいくわ。それじゃあね』
 それだけ言うと、母は電話を切ってしまった。
 わけのわからない展開に、わたしはしばらく呆然としていた。

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